ジョージ・セル【指揮台のタイラントと呼ばれて】1969年8月24日

本稿の狙い(というほどのものでないが)はこちら。

セルの音楽的故郷

オーストリア=ハンガリー帝国時代(1897年)のブダペストの生まれで、20世紀後半(1970年)のクリーヴランドに没したハンガリー系ユダヤ人のセルは、「・・・のひと」と括れない存在。
そのなかで音楽面の「故郷」「原点」「(クリーヴランド以外の)重要都市」はウィーン、プラハ、ザルツブルクと考えられる。
学んだのは二重帝国の首都ウィーンの音楽院、初録音のオーケストラはウィーンフィル、戦前のキャリアはプラハで築き、そしてクリーヴランド定着以降の欧州のいわばメインフィールドがザルツブルクだった。

ザルツブルクの重要性

現在と違い、当時の音楽監督とオーケストラの関係は密着度が高く、セルはクリーヴランド管弦楽団との契約で1シーズンに6週間のみ他楽団への客演が許された。1950年代はニューヨーク・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団の常連、1960年代に入るとロンドン、ベルリン、ウィーンが主になった。

こうした通常の客演以外にセルが欧州のオーケストラと交わる最大の機会はザルツブルク音楽祭だった。
1949年から1969年にかけてオペラ、コンサート両面で活動。ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、チェコ・フィル、シュターツカペレ・ドレスデン、フランス国立管弦楽団などを指揮。

特に1957年からカラヤンが音楽祭の中心に座ると、セルは登板機会の多い重鎮指揮者となり、エックやリーバーマンのオペラまで手がけた。
1967年にはクリーヴランド管弦楽団を伴い遠征、カラヤンとの間で双方のオーケストラを指揮するいわゆる「指揮台の交換」まで実現している。

そしてInstagram画像のライヴ録音CDの1969年8月24日、ウィーン・フィルとのオーケストラマチネが、ザルツブルク音楽祭での最後の指揮、ウィーン・フィルへの告別になった。

どんな演奏かは上記投稿の記述通り。
「ハートを持った独裁者」と言われたセルが、強烈なプレッシャーをオーケストラにかけ、一方のオーケストラも一歩もひかず、本気の反応で青白い火花を散らして弾き抜く。音源が残っていて良かった最良の記録である。

ところで先述したセルの音楽的故郷のひとつがプラハ。当地の歌劇場のポストを務め、1930年代後半にチェコ・フィルとドヴォルジャークの2代名作、チェロ協奏曲(独奏パブロ・カザルス)、新世界よりの録音を行った。
セルの渡米でいったん繋がりは途絶えたが、1960年代に入るとザルツブルクやルツェルンで共演した。

次回はセルとチェコ・フィルの関係を覗き見る。



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