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コロナ日記⑦:”普通”化

※このシリーズは『ペスト』(カミュ著)の内容が出てきますので、ネタバレが嫌な方は見ないでください。

4/17。金曜日。
シフト勤務だから曜日の感覚はないのだが、こうやって書くと今日は金曜日なのだと気づく。

約1週間空いてしまったけど、この1週間でも何かと思うことは増えていった。
状況は悪化しているだけではないと思うが、感じている変化はあくまでも主観で良し悪しを決めてるから、他の人からしたら、ただただ事態が悪化した1週間と見れるのかも。

空は曇り。最近空を見ると曇りが多い気がするんだが。
そんな事をふと思いながら今日も書いてみる。


最近
休業要請の2週間延長の検討が公表され、怒りと嘆きの批判が飛び交った日から数日経過し、東京都一日の最大感染者数はこれを書いてる日200人を突破した。

死者数、感染者数も、毎日定型の業務が行われているかのように、淡々と数字を公表している。
毎日数字は公表され、値は常に変化しているけど、数週間前ほど大袈裟に公表されることはなくなった。

会社や家庭での会話にも際立って取り上げられることもなくなった。
「ま、いつものことか」となりつつある。のか。

東京都の感染者数はいつの間にか3桁が普通になり、回復者のニュースは注目されない一方、芸能人の感染は大々的に公表されていた。
感染するのは確かに悲しい事であるが、それはどんなな人だって同じ。
世界の何万人の感染者も、一部の芸能人も。

それでもやはり芸能人の感染の大々的に公表するのは、インパクトからなのか。それともより危機感を煽るためなのか。
いつもテレビで見るあの人も感染する。という事実が、視聴者に当事者としての意識を芽生えさせるのか。ここで考えてもキリはないが。

そういえば、マスクが買えないのが気づいたら日常になっていた。
店頭に行ってもマスクがないのは普通で、むしろ数あるマスクをどのように使っていくか、また、繰り返し使えるマスクを作ろうという動きが普通になってきた。いまだに批判が絶えない、政府からの支給も布マスク。

アルコール消毒もかなり身近になった。
職場が結構密閉されているため、流行病予防のアルコール消毒は日常であったが、職場以外のところでもよく見かけるようになった。
スーパーで買ったものを袋詰めする前に、アルコール消毒をする主婦を見て、なんだか新鮮だなと思った記憶がある。

お偉いさんの記者会見も増えてきた。
あれ、こんなに総理大臣の顔をテレビで見る事あったっけ?
とふと疑問に思う。
東京都知事は最近よくCMにも登場する。

緊急事態だからこそ、トップが方針をしっかりと情報発信をしないと、情報統制が取れず混乱が生じることは、ここ数週間で色んな人が実感したことであろう。

SNSはどうか。相変わらず批判や嘆き、悲しみは無数の呟きやら文章やらに載って発信されているが、妙な落ち着きがあるようにも感じられる。
この状況に反発したり何かを攻撃したりしても、ウイルスは関係なく蹂躙していくことを、半ば悟ったのかもしれない。

皆んな”受け入れてきてる?”


希望の思考停止→無気力の思考停止
感染流行の初期は、自分達の快適な生活が不自由になった不満、程度のことしか考えず、いよいよ本当に大変な事態になると、今は大変だけど、我慢していればいつかは日常が戻ってくると思うようになり、過去へ思いを馳せらして希望を見出すことと、現状を見て絶望に打ちのめされること、を反復する。

ペストでは、おおよそ市民は上記のような様子で語られていた。

いつ終わるか分からない不安に心を折られず希望を持つためには、あの頃の日常を思い浮かべて、また、あの頃の日常にいつかは戻ることを考える。
今を良くすることには焦点を当てられていないのだ。

すぐに考え方を変えてポジティブになれる人ばかりではない。
「この状況はチャンスだ!」「今だからこそ前を向こう!」「今ある生活を受け入れよう!」とすぐになれればいいが。
今は大変な状況だ。不安も背中にこべりついてる。過去に思いを馳せてしまうのは自然な反応だと思う。

そして思う。希望を持てていればまだ良いと。少しでも希望を持てているなら。
もし、この状態で無気力になったら、意思を持たなくなったら、人は人して生きていけるのか。

ペストの終盤では、予防隔離のために生活を管理された人々の様子が描かれている。
そこでは、人々の集団があるのにも関わらず妙にひっそりとしており、人々は普段は何もせずただ茫然としている。というのである。

予防隔離とはなっているが、対象になったということは、対象にならなかった人達にはない、
”ペストを持っているかもしれない”
という烙印を押されたことに等しい。

そんな人々が集まった空間。お互いにお互いを警戒するようになってしまったのである。結果的に交流が減り、上記のような状態になってしまった。

現代にはインターネットがあるから、交流をしようと思えば物理的な距離があっても交流ができる。

しかし、感染してしまえば隔離され交流が途絶えてしまう。
さらに、そのまま亡くなったとなれば、対面することもできず遺体は処理されてしまう。
今日遠くにいるあの人と話ができたのに、翌日その人と連絡が取れなくなってしまったなんてこともありうる。逆もまた然り。

大切な人がもし死んでしまったら。
悲しみに暮れて、他の人たちとの交流を絶って孤独な世界へ身を預けてしまわないだろうか。
また、自分が隔離されて外部と交流ができなくなったらどうなるであろうか。

そんなことを思うと怖いが、そうならないために自戒を込めて書いておく。
誰かと交流できることは、思った以上にエネルギーを貰える貴重なことということを忘れないこと。

この先はどうだろうか。
あと数週間とかで収まる事態ではないと思うから、あと数ヶ月経った時を考えてみるけど、皆は希望を持てているだろうか。
生活に順応し、不安を抱えながらも各々幸せを見つけているだろうか。
それとも人間として生きることを放棄して、無気力になっているだろうか。

人間とはめんどくさい生き物。
ウイルスみたく、何も考えず徒然に彷徨っていられないもんだ。
基本的には。


今日
今は実家暮らし。
これを書いている途中でご飯に呼ばれた。
家族四人でご飯を食べることが増えてきた。
総理の緊急記者会見がテレビで流れてる。

母親曰く「布マスクってなんでガーゼなのに布マスクなの」とのこと。
布マスクという言葉を使ったことがなく違和感があるって。

布マスクの歴史なんて知らんけど、そんなたわいも無い話で盛り上がれることになんだか暖かさを感じた。

これはいつもの景色じゃない。
自分にとっては珍しいこと。

外にいる時間が基本的に長い分、家にいると感じることは結構新鮮なもんだ。


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