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「ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。」

何度も読もうと試みて、挫折してしまう本というものがあります。
本との相性のこともあれば、たまたま気分じゃなかったとか、単に体力がなかったとか、そういう理由で、読みはじめては止め、また最初から読みはじめては止め、なかなか先に進みません。

今回の本は、そんなもののひとつ。

アガサ・クリスティー著、青木久惠訳『そして誰もいなくなった』(早川書房、2010年)

まさかこんな名作を、と思うでしょうか。
名作だからこそ、なかなか読み進まないことがあります。だって、細かいことはさておき、話のオチは知っているんだもの。
連続殺人で、容疑者も含めて全員殺されるんでしょ?
もちろん、ミステリの本懐はそれまでの過程と最後の謎解きなわけですが、まあつまるところ、気分じゃなかったんでしょうね。

そんなわけで長らく放置していたのですが、有栖川有栖がこの作品のオマージュを出したことで、「あっちを読む前に本家を読まなくちゃな……」となりました。
読みはじめて、第一の殺人が起きる頃になると、ようやくのめり込んできました。

謎の犯人からの挑戦状、屋敷にまつわる伝説、歌になぞらえて起こる殺人事件……

これでもか、というほど「本格ミステリの定番」が出てきます。
正確に言えば、この作品が有名になったから、「定型」として定着したんでしょうけどね。
いくら定番だろうとも、「わらべうた殺人」とかワクワクしてしまいます。
何かの本の紹介でも書きましたが、「お約束」は大事です。
期待しているものがその通り来た時の興奮と、期待を裏切られた時の興奮のバランスがいいものが、いい作品なのではないでしょうか。

内容については、ネタバレのこともありますし、そもそもバラせるほど正確に覚えていないので、まるっと割愛します。
この作品はクリスティーの中でも、ポアロやマープルのような「名探偵」が出てくるものではありません。
一般に、キャラクターシリーズものの方が人気が出るのですが、名物探偵がいないのにこれだけの人気作、というのは、クリスティーの語りが抜群にうまいことの証拠ではないでしょうか。

屋敷への招待客のひとり、ウォーグレイヴ判事は、一等車に乗り葉巻を楽しむだけの社会的地位と財力をもちながら、隅の方でどこかぼんやりとしています。
端っこの目立たないところに閉じこもるように、車窓の景色を楽しむのでもなく。
殺戮の舞台となる屋敷に招待された人たちは、お互い面識はなくとも相手の評判をなんとなく知っているような、ある意味で閉じられた階級の人々です。
生活に困ることなく、人生の何かに飽きていて、後ろ暗い過去があり、そしてひとりずつ殺されていきます。
一見平和で凡庸な物語の導入は、これからはじまる悲劇を予見しているかのような静けさです。
窓の外は、イギリス特有のあの薄曇りの灰色の海だったのでしょうか。


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