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「ある」もの、「ない」もの、その視点の先にあるのは何?

「この出来事のおかげで私は何ができるようになった?」
「この出来事のおかげで私は何をしなくてよくなった?」

何かが起こると最近の私はこう考える。
そう考えると、実際に自分の心の奥で思っていた願望が叶っていたりすることに気づけるのだ。
それは、世間一般的に言うと「引き寄せの力」が働いているのかもしれない。
 
私はある時から集中して「引き寄せ」に関する本を読むようになり、いろんな知識が増えた。
それはスピリチュアル的なものから、量子力学的なものまで、自分の興味の赴くままに手当たり次第そういった知識に触れていった。

私ではうまく説明できないので、もしくは下手に説明すると本当にふわっとした、胡散臭い方のスピリチュアルっぽくなってしまいそうなので、今回は詳しい説明はしないでおこうと思う。

「引き寄せ」について色々と学ぶようになってから、
「自分に起こりうるすべてのことは完璧なタイミングで起こっている」
という考えも自分の中に定着するようになった。
 
自分にとっては「良い」と思われることも。
そして、自分にとっては「悪い」と思われることも。
全ては完璧なタイミングで起こっている。
本当にそう思うようになった。
「そう思うようになった」というのは、「そのように思おうと努力している」わけではなくて、自分の中でしっかりと腑に落ちて「心から自然とそう思えている」ということだ。


「この出来事のおかげで私は何ができるようになった?」
「この出来事のおかげで私は何をしなくてよくなった?」

何かが起こると、一見いきなりそのような出来事に見舞われた気がするが、出来事に対してこの問いを立てると、実は自分が心の奥で望んでいたことが叶っていたことに驚くのだ。
 
だから最近の私は、自分が思っていること、さらには無意識に思っていることにも気をつけるようにしている。
 
ここで、少し前の事を振り返ろうと思う。
 
今年の三月末、父がくも膜下出血で倒れた。
その時は本当に驚いた。
実は倒れたその日の昼間に、私は今まで課題があると思っていた父との関係性を解決できたと思ってその気持ちを自分のブログで書き、自分の中ではもう終わったこととして気持ちを次の段階へ移行しようとしていたからだ。
 
私はその時思った。

「まだ課題が残っていたのか…」
 
 
父が倒れたタイミングがあまりにも自分にとっては驚きで、
「父とのことは自分がもう解決した」と思っていたのに、そのタイミングで倒れるなんて。
タイミング的にも「これはきっと意味があることなんだな」と思った。

それからいろんな心の葛藤があった。
 
「何の課題が残っていたんだろう」
「自分の中では納得していたのに、それは表面的な納得で、心の奥ではまだ納得していない自分がいたのだろうか」
 
いろんな問いを自分の中に立て、自分と向き合った。
 
その間にも、父が今後どうなっていくかわからない状態で、
「私が知っている父はもういないのかもしれない」という不安とも戦った。

自分が知っている「父」が、今回の病気がきっかけで、全く違う父になってしまったとしたら。
それは「父」と思えるのだろうか。
だとしたら、人間の「その人らしさ」というのは、一体どこを見ているのだろうか。

見た目が変わったら…、
今までできていたことができなくなったら…、
性格が変わってしまったら…

私はその人の事を「父」と思えるのだろうか。

いや。違う。
見た目が変わろうが、できることが変わろうが、性格が変わろうが、
父は父だ。
今までは綺麗な丸を父だと思っていたけど、それが三角になろうが、四角になろうが、もしくはその丸が欠けようが、父は父なんだ。

人間の生きる意味、自分の役割、自分に与えられた課題…
父の入院中は本当にいろんなことを考え自分の心と向き合った。
 
そして、父は奇跡的に手術が成功し、リハビリもうまくいき、無事に退院した。
完全に後遺症がないわけではない。だけど生活はできている。
本当に良かったと思う。
病院の先生たちは「運が良かった」と言っていた。
 
そうかもしれない。
「運が良かった」
これも一つの物の見方だ。
 
でも、
父は父で「まだ課題が残っていたから生かされた」と思う事もできる。
 
私は「全ての出来事は完璧なタイミングで起こっている」と思っている。
この考え方で言うと、引き寄せの法則は矛盾があるかもしれない。
「全てが決まっているのなら、引き寄せなんて意味がないのではないか」
そういう疑問も出てくる。
私は、全ての出来事は完璧なタイミングで起こるのだが、その中にも自由(余白)があって、そこに引き寄せの力が働くのではないだろうかと思っている。
 
いろんな考え方があっていいと思うし、
私はこの考え方がしっくりくる。
 

そして、
父は今、引き続き家でリハビリをしながら職場復帰に向けて頑張っている。

父は変わった。
 
自分が死の淵を経験したことで人生観が変わったのだろうか。
(もちろん倒れた時の記憶や手術中の記憶は父にはないのだが…)
 
以前の父は、何を考えているのかわからなかった。
家族に対しても愛情があるのかどうかもわからず、子供の私にもそんなに興味がないと思っていた。
でも形だけは一応「優しい父」だった。
だけどギャンブル依存症でもあった。嘘もたくさんつかれた。何が本当で何が嘘かわからなかった。だから本当に大変だった。
今まで自分の感情を素直に表現することがなかった父。
何を言っていても、正直、本心では何を思っているのかわからなかった。
父のことは尊敬していなかったし、むしろ本当に嫌いだった時期もあった。
ただ孫が生まれて、そこから少し父は変わった。
私の中でも「尊敬できない嫌いな父」から、父への見方が変化していった。
そんな時に父が倒れたのだ。
 
そして父は変わった。
さらに変わった。
 
自分の気持ちを素直に表現し、言葉で感謝を伝え、時に涙を流す。
生きていることに感動し、一つ一つの動作、一つ一つの出来事に感謝している。
 
とても「人間らしい父」になった。

私は「こんなにも人間というのは変わるものなのか」と思った。
「いや、もしかしたら、本当はこういう一面があったのかもしれないな」とも思った。
生きることが当たり前で、食べられることが当たり前で、家族がそばにいることも当たり前。
何もかもが当たり前だったから、その瞬間瞬間を意識していなかったんだろうなと思う。
その当時の父には「感謝」なんていう気持ちはなかったんだと思う。
それこそ、ギャンブルさえできていたら良かったんだろう。
そこに父の「心」はなかった。
一緒の空間にいても「心」は一緒じゃなかった。
家族で一緒に過ごしているようで、父だけはきっと参加していなかった。
今、昔を振り返ると、そう思う。
 
私が人の心に興味を持ったのも、人一倍「人の本当の気持ち」に敏感なのも、父との関係性が原因だと思う。
私は父のことが嫌いと言いながら心の奥では「父の本当の気持ち」がずっと知りたかった。
ずっと父と「心の会話」がしたかった。
そんな思いを幼少期からずっと、長い年月をかけて、私は潜在意識の中にしまい込んでしまったんだと思う。

「父への思い」が形を変えて、私の「興味のもと」を作り上げた。
 
「人の気持ちに寄り添いたい」
「本当の気持ちに気づいてあげたい」
「心と心の会話がしたい」

それらの気持ちが私の生きる原動力になり、
そこからいろんなことを学んでいった。
自分ともたくさん向き合った。
そして、いろんな知識が増えた。
 
私は大人になり、父を「父」として見るのではなく、「一人の人間」として見れるようになった。
知識のおかげで、ものの見方も変わった。
「過去のつらかった出来事」への意味づけも変わった。
意味づけが変わるということは、過去が変わったということだ。
正確に言うと、「過去への解釈」が変わったということになる。

今までは「家庭環境のせいで」「父親のせいで」「母親のせいで」と、自分の生きづらさを周りのせいにしていた。
そして、そんな自分のことが嫌でもあった。
でも、解釈が変わることで、「~のせいで」から「~のおかげで」に変化するのだ。
いろんな学びがある中で、「~のおかげで」と思うようにしていた時期もあった。
でもそれでは、あくまで形だけを真似しているだけで、真の理解にはなっていない。
心から自然にそう思えたときに、色んな呪縛から解放されるのだ。

今の私は、すべての出来事に対して本当に感謝している。
父も変わったし、私も変わった。

変化した父と会話を交わして新たな気づきがあった。

それは、自分の願っていた事がまた叶っていたという事実だ。
 
病に倒れてからの父との会話は、「心」と「心」の会話ができていると思っている。
お互いが思っている事を素直に伝え、お互いの気持ちを理解しようという気持ちがある。
私も今まで恥ずかしいと思って言えなかった素直な気持ちを伝え、
父は父で自分が思っている気持ちを恥ずかしがることなく素直に話してくれている。
ずっと父が何を考えているのかわからなかった私からすると、
奇跡のような時間だ。
父の心は「今ここ」にある。
その気持ちはしっかりと「家族と共に」ある。

私はずっと父のことが理解したかった。
心の会話がしたかった。

その願いがこのような今回の父の病気を通した形で叶ったのだ。

そう気づいた時、私は静かに驚いた。
「引き寄せ」は確実にある。

願えば叶う
 
少なくとも私の人生において、その力は働いている。
 
ここまでくると、少しは「引き寄せの力もあるのかもしれないな」と思う人もいるかもしれない。
そう。
本当に引き寄せの力はすごい。
 
もっと、深く観察してみると、また違う角度からの気づきが見えてくる。

私は今、父と心の会話ができるようになったといった。
それは、とても良かったと思っている。
でも、一方でまた新たな悩みが出てきている。
これを悩みというのかどうなのか、人それぞれだと思う。
でも、私にとっては小さいけれど心に引っ掛かっている悩みだ。
今、父は一人で過ごすことができない。
誰かがそばにいないと不安で仕方がないらしい。
「気持ちの問題だ」といってしまえばそれまでだが、人の心は何層にも複雑に重なっているので、
そう簡単に言葉で強引に解決はできないと私は思っている。
父には時間が必要なのだ。
そして、自分に自信を持つための経験も必要だと思う。
周りができる事と言えば、父を信じて勇気づける事。それだけだ。
必要以上の手助けは、父の課題克服のチャンスを奪ってしまう。
今は家族で協力して、父が一人にならないように交代で、何とか日々を過ごしている。
私も仕事や子育てをしながら、時間を調整して協力している。
ただ、正直大変だ。
父は介護が必要なわけじゃない。そう思うと全然大変じゃないように感じる。
だけど、やっぱり新しいリズムに慣れるまでは、心に負担がかかっていることは事実だ。
今、私は時間と心に余裕がない状態だ。

時間と心に余裕がない状態。
 
ここで私はハッとしたのだ。
 
「また願いが叶っている」
 
しかも、自分の思っていたのとは違う形で叶ってしまっている。
それは自分にとっては願っていなかった形。
こんなふうに「時間と心に余裕がない状態」になりたくはなかったのだ。
 
でも、結果としてこのような状態になったからこそ、
「しなくてよくなったこと」がある。
 
自分の中では一時、
あることをするのがしんどくて、したくないと切に願っていたことがあった。
でも、その時の自分の状態でいえば、自分はできる状態で「断る理由」がなかった。
ただ、心の奥では「やりたくない」と思ってる。
本当に困っていた。
そして、しばらくして状況が変わった。
そう、今私はそれをやらなくていい状態になっている。
何故なら「時間と心に余裕がない」からだ。
つまり、しっかりと断る理由がある状態で、
「それをやりたくないという自分の願いが叶ってしまっている」のだ。

それに気づいて私は、
「そうか、こんなことさえも叶ってしまうんだな」と無意識に願っていた自分を反省した。
あの時、自分がそんな願いを抱かずに「今起こることすべて」に感謝していれば、もう少し違った「今」があったかもしれない。
 
願い事は必ず叶う。
それは意図しない形であっても、必ず叶ってしまう。
自分の思い描いていた通りに叶うこともあれば、
「そんな角度から?!」と思うような形で叶ってしまうこともあるのだ。
 
今年に入ってから本当にいろんな経験をした。
いろんな出来事が私の身におこった。
そして、そこからいろんな学びがあった。
そう思うとやはり全ての出来事には意味があり、
全ては起こるべくして起こっているのだと思う。

今私が話してきたことは、
「単なる思い込み」と思う人もいるかもしれない。
それも一つの考え方だ。
いろんな考え方があっていいと思う。
でも私は、自分がそう思うことに違和感を感じていない。
だから、
自分の思うままに解釈しようと思う。
 
ここまで来て今私が思うのは、
どんな時も「足りていないこと」に目を向けるのではなく、「足りているもの」に目を向けることが大切だという事だ。
 
人間はどうしても、欠けている部分、足りていない部分に意識が向くようになっているらしい。

それは時として、成長につながるが、
時として、後退につながる。 
 
どんなに幸せな状態であっても、足りてない部分を見つけようとしてしまうのだ。
そんな人間の性質を理解しておくことも大切だ。

足りているもの、持っているもの、あるもの、
つまり「充足」に意識を向けること。
それだけで不満はなくなってくる。
そもそも、私たちは元々全てを持っている。
でもだからこそ、持っていることに気づけない。
「今生きている」ということが「持っている」ということの答えだ。

足りないところだけを見ていてはきりがない。
「不足探しメガネ」をかけている以上は、幸せにはなれない。

私たちはもうすでに幸せなんだ。

こういった考え方は、私の中にはもう当たり前のようにあるものだ。
だけど、それでも「不満」「心配」「不安」が出てくる事もある。
それでもいい。
だって人間だから。
どんな感情にも意味がある。学びがある。
「感情」そのものには良いも悪いもない。
後になって自分でその感情に対して意味づけをしているだけだ。
感情を感じることは悪いことではない。
全ては経験。
そこで生じたエネルギーをどこに使うのか。
本当にただそれだけのこと。

不満を感じたから、気づけることがある。
心配したから、気づけたことがある。
不安があったから、見えてきたものがある。
 
全ての出来事、そこから生じる感情には意味がある。

それらの感情を味わいきるからこそ人生は楽しいのだ。
 
今も私は様々な感情と共にいる。
感情を感じている瞬間、感情によっては心地よくないものもある。
だけど、それもまた「心地よくないなと思う経験」をしているだけだ。

そんな時、それを「点」として見てしまうと心が苦しくなってくる。
まるで終わりがないかのような、永遠に続いてしまうかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。
だけど、その「点」を「通過点」として考えると、
その「点」はとても大切な瞬間だと思える。
「人生」とはただの「点」の集まり。
その点を、その瞬間を大切に生きる事が幸せな人生へとつながる。
 
では、その瞬間を大切に生きるとはどういうことなのか?
 
結局それは、感情を感じきることだ。
しっかり楽しみきる。
しっかり悲しみきる。
しっかり笑いきる。
しっかり怒りきりる。

そしてもっとも重要な事は我慢はしないことだ。

我慢して中途半端に感情を感じきらずにいると、自分の中に不満がたまる。
いつまでもずっと、その感情を心に留めてしまう事になる。
感情を感じきれば、その感情というものはスッと姿を消す。

我慢を使う時はただ一つ。
自分が成長するときに踏ん張るエネルギーとして使えばいい。

あなたは今日、しっかり楽しみ切っただろうか?
あなたは今日、しっかり悲しみ切っただろうか?
あなたは今日、しっかり笑い切っただろうか?
あなたは今日、しっかり怒り切っただろうか?

自分が我慢をしていなければ、きっと色んな事が許せてくる。
いろんな事が気になって許せない人は「自分が一生懸命我慢している」からかもしれない。
私もまだ、無意識に我慢するクセがある。
でも、何度もいうように我慢をしていると感情を感じきることができない。
いつまでたっても感情が成仏できずにさまよってしまう。
だから、もっと気楽に、もっと緩んで、ゆったりと生きていくのが今の私の目標だ。

我慢せず、感情を感じきり、そして「今」に感謝する。
そうしていたら、困った形で願いが叶ってしまう事も減るだろう。
「ある」ものに目を向け、「充足」を感じ、自然とこみあげてくる「感謝」の気持ちを噛み締める。

「感謝」

人生はシンプルだ。
 
ただただシンプルに生きたい。
そして生きている「今」に感動したい。

まだまだ私の人生は続く。
あなたの人生も続いていく。
この先も色んな事が起こるだろう。
そしてきっと色んな感情を感じるだろう。
それが人生。
それこそが人生。
共に生きていることに感動し、今もこの瞬間に感謝したい。

人生は素晴らしい。

今も、今までも、これからもずっと。

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