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ダイエーでジーンズ売る

大学生の頃、ある人気講師が授業の中でこんなエピソードを話した。

「うちのゼミの卒業生がね、めちゃくちゃオシャレだったのよ、んで、そのオシャレな子はあるアパレルショップに就職したんだけど、配属先がダイエーの中の店舗だったわけ、彼はめちゃくちゃオシャレなジーンズをめちゃくちゃオシャレなお客さんに売りたかったんだけど、来るお客さんは特にオシャレでもなくて、良いジーンズが欲しいわけでもないと、ある日俺の研究室来てこう言ったのよ」

――先生、ダイエーでジーンズ売るにはどうしたらいいんですか?

経営学の授業だったのは間違いないが話の顛末がどこに落ち着いたかは覚えていない。だが、その話の甲斐があったのか、僕は今ショッピングモール内のパソコン教室に勤めることになった。

一年半ぶりの復職。自分でもびっくりするほどのあっさりとした応募で、あっさりとした採用であった。月給は茨城県民の新卒の初任給にしては少し高く、都内で考えれば振り込まれたことに気づけないほど低い額だ。それでもよかった。とりあえずの収入が約束されていない状況は身も心も痩せていく。どうせ家族も何も失った自分に宵越しの金など必要ない。生きていけるぎりぎりの金があればよいのだ。この額が毎月入るのだという安心感。それが一番僕の欲しかったものなのだ。

初日の緊張感は凄まじかった。初めての接客業。アルバイトでコンビニの店員をしていたのとは訳が違う。お客さんの前で「正社員」として対応する。クレームなんてもってのほか。パートさんのクレームすら背負わなくてはいけない。勝手な思い込みでガチガチになった体はまともにハンコすら押せなかった。

パソコンの先生という仕事は思ったよりも地味だった。お客さんのカルテを覗いては、今日どのブースに座るのかを確認し番号札をカルテに挟み込む。お客さんが来たら今日の日付のところに「済」のゴム印を押す。それだけだ。あとはお客さんが動画を見ながら学習し、わからない操作を補助する。研修用ビデオで講師は「パソコンは好きではなくてもよい、人が好きであれ」と強く主張していた。僕は人間が大好きです。僕はエンジニア落ち武者です。

そんな「済」スタンプを押してみたところ力加減がわからず半分が欠けてしまった。ああ、なんてことだ。こんなに僕は衰えてしまったのか。ADHDの僕には一番向いていない事務職だ。辞めよう。緊張と焦り、その中でうまくついていかない体に僕はヘトヘトになっていた。額に脂汗を浮かべ十三時を迎えると、遅めのお昼休憩に入った。閑散とした平日のフードコート。復職して初めての昼食は、いつも食べているすき家の牛丼だった。生来の早食いに加え暇のつぶし方もわからない僕は休憩時間を五十分も余らせてしまった。煙草を吸いたいが、従業員の喫煙所もわからない。教室に戻って場所を聞いてみようと思ったが

「今時煙草を吸う男、かっこ悪い、お客様に対して不快な匂いを与える有害人間だ」

なんて思われたらどうしようと考えてしまい、ふらふらとショッピングモール内を散策して残り三十分のところで観念して事務所に戻った。

午後もハンコを押す以外に業務はなく、読みたくもないパソコン資格の本とカルテを開いたり閉じたり、読んだふりをしながら時間をつぶした。心臓がくしゃくしゃになったかと思うほど緊張していたはずなのに時間は無情にも過ぎ去っていってはくれなかった。

八時間労働が十六時間労働に感じられた頃、ようやく初日の仕事が終わった。やり遂げた。ついに復職に成功したぞ。僕は体を震わせながらタイムカードを切った。

「お疲れさまでした」

心からのねぎらいの言葉を上司のAさんからいただいた。

「そういえば煙草吸います?」
「……はい」

予想外の質問にNOを言いかけたが長期的に困ることを瞬時に察知し正直に答えた。

「私も吸うんですけど、場所教えますね」

これまた予想外の言葉だったが仲間がいるのはとても心強かった。喫煙者にとって喫煙仲間、特に上司が喫煙者であることは核戦争におけるシェルターのように心強いものなのだ。

二日間の休みを経て五連勤を迎えた。いきなり来た正念場である。この連勤を乗り越えてこそ、真の復職である。口を真一文字に結んでショッピングモールの従業員出入口を開ける。鉄製の分厚いドア。三日前よりもずっと重く感じられた。

勤務初日の内容をすっかり忘れてイチから感覚を取り戻し、1時間が経った頃にKさんという生徒が現れた。足や手の動きが少し不自由そうだ。一番近い席に案内し授業を進めること十分、質問が来た。

「あのぉ……このぉ……問題はぁ……うーんとぉ……試験にぃ……出ますかぁ?」

マイクロソフトのoffic系ソフト、いわゆるwordだexcelだのといったアプリケーションを上手に扱えますよということの証明になる資格が存在する。通称MOSと呼ばれるものだ。パソコン教室に通う多くの生徒はこの資格の取得を目指している。Kさんもその一人だった。

「うぅん、どうでしょうかね、出るかもしれませんね」

教室独自のテキストに書かれている練習問題と同様の問題が資格試験にも出題されるかという質問だった。正直試験の内容は受けたことがないのでわからないし、そんな質問をされたところで未来の日程の試験問題を知っているわけがない。

彼は受からないだろうな、と思った。言い方は悪いが、知的な部分でも障害があるように見受けられる。この教室に金だけむしり取られるのがオチだ。そもそもここにいる生徒全員が搾取される側の人間なのだと思った。その中でも彼は最も滑稽に、そして華麗に搾取される人間だ。

彼は二時間の授業の中で質問を十回以上していたように思う。僕は折り目正しく、正社員らしく、営業マンらしく彼の質問に回答していった。彼は僕に深々と頭を下げ帰っていった。

ある女生徒が予定より少し早めに来て、今後の授業の相談を申し出た。ベテランの同僚が対応する。

「次の会社からもっと早く資格をとれって言われたんだって、1ヶ月前倒し」

同僚は戻ってきて彼女のカルテを開きながら言った。

「おぉ、いけそうなレベルなんですか?」
「んー、パソコン触ったことないレベルからやってるからちょっと厳しいかもしれませんね」

プランが1ヶ月前倒しになったことで、その女生徒は基礎をすっ飛ばして試験対策の授業にすぐさま入ることになった。どういう状況のときにこの操作をするのか、そのプロセスがわからないまま試験問題に挑んでいるため、アプリケーションが動かなくなった、と何度も質問をしていた。状況の過酷さは火を見るより明らかだった。

「なんとか頑張ってほしいですね……」
同僚は一所懸命に質問に答える。丁寧なプロセスの説明は省いて、とにかく得点が稼げるように指導を続ける。僕はソワソワしながら周りを見渡す。満席の教室で動画学習を黙々と続け、時折メモをとる生徒達。眠っている者はおらず、得たいスキル、取りたい資格のためにモニターとにらめっこを続けている。

安くない授業料、必死になるのだろうな、と僕は思った。

女生徒はそれから毎日四時間試験対策に臨んだ。教える側にも熱が入る。僕も時折アドバイスをしてみた。試験を受けたことのない、我流の実務で培った知識のもろさに、少し歯痒くなった。

あくる日、Kさんがまたやってきた。相変わらず質問が多く、同じミスを何度もしている。試験問題がどうなっているのかも相変わらず気になるようだ。

「すみませんんん、ありがとうございますぅ」
「あぁ、そうかぁ、まただぁ、すみませんんん」
「また……すみませんんん」
「すみませんんん、ちょっとここが……」

彼は自分の頭を指差した。ボクはバカです。そういうジェスチャーをした。いやいや、と僕は応えた。

彼の質問はじれったいものが多い。曲がりなりにIT企業で十年弱勤め、種々のプログラミング言語の実務を学び、プロジェクトリーダーも事務所の所長も経験した僕だ。彼がごく普通の簡単な操作につまずくことが理解できない。覚えられないのは良いとして、色を変えたかったら色のボタンを押すというような簡単な理にたどり着けないのが理解できなかった。

だのに、なぜだろうか。僕は今実力不足を痛感していた。彼らが理解できないことが理解できない。彼らのわからないという心に寄り添うことができない。僕はパソコンでもっと高度なことができるのに。こんな簡単な悩みを解決させてあげられない。彼らのせいにするのは簡単だ。彼らが馬鹿で搾取される側の人間だから仕方ないとあきらめるのは簡単だ。だけど彼らはあきらめなかった。目の前の問題が解決できるまで、その解決方法を覚えるまで何度でも僕に質問してくる。

Kさんは今日も僕の目を見て深々と頭を下げた。

「この人俺のおとんと同い歳か」

頭が禿げ上がった68歳のおじさん。この日が退会前最後の授業だった。ホームページ作成、ブログ作成、デザイン作成講座をすべて修了して目的を達成したとのことだった。

「このテキストにあるURLにアクセスしたら404で見つからなかったんだけど、どうなっちゃったのかな?」

質問の仕方も実にスマートで、いかにもパソコンを学んだ人だということがよくわかる人だ。調べた結果、そのサイトが突然閉鎖したことを告げ、替わりのサービスを紹介した。ありがとう、と彼は答えた。ガラケーも満足に使えない父親とはレベルが違うなと感じた。

授業が終わり、お世話になりましたと禿げて光っている頭を僕に下げてくれた。上司のAさんが最後の挨拶をする。

「いやぁ、お疲れさまでした」
「ははは、ありがとうございました、いやね、ホームページも作れるようになったし、ブログも作れるようになったんで、オンラインショップの準備はできたんですよ! 何売るか決めてないんだけど!」

談笑しながら二人は教室を出ていった。父親と同じ歳のおじさんがネットショップを開く。快活に第二の人生を歩み始めた。幸せそうだった。我々は、この教室は彼に知識を与え、彼は何かを成し遂げたいという強い意志でその知識を得、花を咲かせたのだ。

生徒達は僕の想像以上に勤勉で、希望を持っている。

もしかしたら、彼らの希望を打ち砕くのは、彼らをあきらめさせるのは、僕達インストラクターがあきらめることなのかもしれない。

明日Kさんが来たらもっと何度でも同じ質問に答えてやろう。試験問題という答えのない不安に一緒に向き合おう。何度でも一緒につまずいてやろう。

僕達の仕事はもしかしたら施すことではないのかもしれない。泥だらけになりながら一緒に耕し、不作に共に泣き、豊作に共に喜ぶことなのかもしれない。

ダイエーでのジーンズの売り方はいまだにわからないけれど、もしかしたらマウスも触ったことのない人に、Excelの資格を取ってもらうことと似ているのかもしれない。

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