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小さな人間革命ツールとしてのサウナ

タイトルは大きく出た。朝、妻とディスカッションしていてそんなことを思ったのでメモ。

友人が演劇教育を推し進めている。俺は昔少しだけ演劇教育の人に社会人教育の場で聴いたりインプロとかで実演に参加したりもしたことあるが、そんなに詳しくない。下の記事を見るとコミュニケーション能力を育むものらしい。そりゃ必要なのかも。

個人的にはロールプレイを通じて違う立場になることで多様性を育むとか寛容性を身につけるとか高めるとかなのが効果かなと思うが、まあ、敷居高いよなと思ったりする。

話は変わってサウナ。

サウナというのは、まあ無駄な時間ですよ。延々とテレビ見たり見なかったりしてもだけど、黙って熱い中にいたり水風呂入ったり、外気浴ととのったとか言ってて生産性の観点からはタイパ最悪な行為かもしれん。有名サウナーな誰かも言ってたね。忘れたが。

演劇教育的なコミュニケーション力を育みましょうな観点は見るべくもない。だが、マナーやら心地よさをともに侵食しないようにするという他者性の観点を育む点はあるようにも思う。
なにより、人に優しくあらんとできる態度を育めることがあるのかもしれない。黙浴社会のなかで少しずつサ室環境によっては会話もできるようになってきて、昨日なんかはWBCで牧の他にホームラン打ってるの誰だっけ?それって近藤ですよ、と知らないオッチャンにも横からコメントできる程度にはやり取りできるようになったりしてきてます。

サウナは、生産性って観点にそれって必要ですか?ブルシット・ジョブの世界のなかでの尺度であるところからの生産性の観点で測ることを拒否する感ある。測りすぎな世界のなかで、測らんでも良いではないかという世界観の場ではなからうか。

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?


雑に対比すると、自己変革をしてコミュニケーション能力を高める大きな人間革命ツールとしての演劇教育と、ありのままの存在として自己完結的ながら寛容性を高めて他者と繋がりやすくする小さな人間革命ツールとしてのサウナ。

中年期で自己変革とか今後のコスト・リターン観点的にも正直ゴメンなロストジェネレーションで、かつ他者不信で他者と比較しがちな私などは演劇教育とか言われても、まあ日常にビルトインすべくもないだろう。これまで社会人教育でインプロの学び場に立ち会ってきて、企業研修とかで組み入れようとしているのを見ていても、日常の社会規範、ノームに対してはなかなか強固でそこを揺らがせるのが機能的な側面だとしてもなんか冷める・覚めるよなというか、それも受け手が固定観念化しちゃってる、ドゥエック的に言ったらこちこちマインドセット化してる対象者だからなあという感じなのです。
さらにいうと、ウエルビーイング≒サウナというのは、かつて流行った癒やしの令和版実践バージョンなのではないか。挑戦、変革、学習、成長、といったもののアンチテーゼとまではいわないが、リスキリング的な100年人生の恒久的なラーニングへの強いられ感お腹いっぱい的なものではないのかとも。
そこで求められているのは、強いられ系リスキリングラーニングに置き換わらずとも逃げ場でありつつもバランサー的でありつつもなサウナ≒ウエルビーイングな場の必要でないかとも思われる。
ダラダラ書きすぎていてぼやかし感あるけど要素は詰めてみたサウナの社会的効用考であった。単に、サウナ肯定化論としての雑論であった。

まあ、そんな心性はクズであると師匠宮台センセは喝破しているのであるが。

こういった二律両論に対して態度保留するのもまたロスジェネなのである。



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