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笙野頼子『放火予告を「免れて」います』③

②は下記よりご覧ください。

5 『トランスジェンダーになりたい少女たち』と『女肉男食』

 拙作とあのジェンダーベストセラー、実は姉妹本、ていうか少なくとも従姉妹のような本ではあるはずだと思っていました。例えば、——向こうの題名の副題には「流行の悲劇」とあり、こっちは目次に「子供に自分の性別を自分で決めさせる、タビストックの悲劇」と題した十一章があります。この章のテーマは言うまでもなく、児童虐待医療の危険性と悲劇ですね。無論、……。

 向こうは本場の取材であり、その一点に特化されていて詳細、しかも資料だけで30ページ超を費しています。本格的学術書、迫力ありますね。一方拙作、3冊目(『解禁随筆集』)までリンク集なしです。というのも、……。

 前二冊は緊急出版だし何よりも少しでも薄く、早く、安く、貧乏な人にも届け、とそこを優先しておりました。その上当時は海外のような襲撃も怖かったので資料リンク集等は入れませんでした。今回は文学なれども少しは入れています。例えば、——、前回の『女肉男食』において「笙野のデマだ、この事件の犯人は精神に問題ありで裁判にはなっていない」などと言われていたダナ・リバーズ事件の報告をリンク付きにしています(詳細は拙著、今回は家にメールで来たWoLF本部からの記事に依拠しました)。
 でもこのリンクがあっても、どっちにしろ結局、私は「無事」でした。或いは今回はシュライアー氏が集中攻撃され、それで拙著は「難を免れ」たのか。え、「売れないから放置されただけ」という事だろうって? とはいえ、……。
 『女肉男食』も予約中から発売2日位はジェンダー部門だけとはいえ1位になっています。しかしその間も放火魔は来ませんでした。私は総合1位じゃないから免れたのでしょうか?  
 さらに、私の「無事」の理由、日本語圏だからかと思ってもみました(放火予告はドイツからでしたので)でも日本上陸でこうなったのだからやっぱり舶来物の上陸に焦って一線を越えたのかとも。
 その他には著者が日本在住だと警察が動き易いから、それで放火魔は手が出なかったのかとも推理してみました。或いは以前にジュンク堂本店に嫌がらせされた時、逆効果で売れてしまった件で懲りたのかとか(確か発売八日で重版決定したはずです)。

 あの時は書店様が守ってくれました。その上で義憤に駆られた勇気ある人々が店に駆けつけてくれた。今も折りに触れ思い出し、心の支えにしている事件と言えます。そう言えばもっと前の話、……。
 鳥影から本が出ていない頃、大阪のある男女参画センターにおける記念展示に選ばれた私の旧作を、TRAが展示から外せと言ってきた事件、初期(他称)TREF達(今思えば凄いメンバーでした)がセンターのアカウントに次々とコメントを繰り出して守ってくれました。私はいつでも誰かに助けられてここまで来ました、感謝あるのみです。でもそれでも燃やさぬ焚書は続いてきたのです。その上に今回はテロ予告と来た、今後の私はどうなってしまうのだろう。ジュンクは心変わりしたのでしょうか?
 攻撃がいつ私に来てしまうのか、原因は何か、どうやって防ぐのかまるで判らない。それがテロの怖さです。
 ばかりかおそらく私の本が市場から消える時は『トランスジェンダーになりたい少女たち』と違い本当にまったく報道されずに話題にもならず、すーっと透明化させられるはずです。無論シュライアー氏もあれだけ話題になったのに大型書店で置けなくなっている事は辛いでしょうが、こちらは人々の目に入るまでにその経過も含め、仲間との時間も含め潰される運命かも。

 例の子供の第二次性徴を止めてしまう薬、リュープロン(当時はルプロンと表記していました)についても詳しい仲間に教えられて、国内でまだ噂だったレベルから恐怖に耐えながら議論し検討しました。外国語のニュアンスの判る人が調査してくれ、確認出来るところを少しずつ取り込みました。極右メディアの妥当性や、数値の出どころまでも教えてくれました。私自身、今もし十代の未成年であれば騙されて胸を切っていたかもしれない「かつての当事者」です。身体にしみ込むような恐怖がありました。というのも、……。

6 #IStandWihtNaturalWoman 日本文学が反ジェンダーにならざるを得ない理由

 前世紀、『ナチュラル・ウーマン』の作者・松浦理英子氏との対談において、私は自分の子供時代の、いつか「生えてくる」自分について、そして男になるべき自分の心得と修行について語っています。さらにその後、長編『金毘羅(金毘羅自認の女性の半生)』において、「生えてこない」ままに生理の来てしまった自分について語っています。ところがこれに言及する事さえ現在においては、ある種の若手評論家ばらには、「ヘイト」なんですね。しかし、……。

 自分の身体から逃れられない、これは文学の基本です。その一方で宗教的な人物の変成男子や、空想上の自分の性別を描く事も大切なテーマとなるはずなのです。
 ていうかこんな不幸な事態になる前の私はまさに自由に、「男になりたかった自分」や「強くて美しいわがままMtF」、「男から女になる神様の話」を作品化していました。しかし、今や誰をも代表していない特定反差別TRAが、私も含めひとりひとりの人間の内面の自由を踏みにじろうとしてきます。心の性別はひとりひとり違う、しかもそれは性別というよりは唯一の私、私小説の内面でしかないものなのに、……。
 TRAは人権や平等の偽名美名の下、侵すべきではない心の自由を乱暴に分類して檻に入れるための、勝手な法律を作ろうとして来ます。司法もそれに加担、あり得ない判決で蹂躪しようとします。昔、女湯に入れる権利を主張していたはずの活動家は、今ではそれがデマだと言い抜けながら余裕で黙っています。

 昨年の最高裁決定により、男性ホルモンによる性器の変成だけで外観用件をクリア出来るトランス男性が現れたと報道している新聞があったはずです。が、本当にそれで外観要件がクリア出来るのでしょうか。悩んでいると、——仲間がこれを教えてくれました。

 私も女性の手術が危険で大変なのは理解している気でいます。しかし、事実として言えば睾丸は生えません。肉体は正直、それが文学です。
 最近のTRAは妙におとなしくなる一方、報道全体が偽りで覆われていきます。その偽りを温床に知ったかぶりのにわかが跳梁します。
 そんな中、私的な些細な事で申し訳ないですが、多様化してにわかの増えてきたTERFの世界でも1回だけとはいえ、私は初見かつ真正のクソにわかから笙野頼子はにわか=最近の参加のみだと言われました。しかし、……。

 文学の大半は昔からTERFです。文学という見えにくいものの中に本来のTERF成分があるという事。
 この問題が流行の社会問題だとしか思わない人々には、今の日本語の危機、地方の凋落等、文学が守るべきものはまったく見えていません。ジェンダー問題というのは実はその中のひとつであり、その趨勢も世界全体の動きとして捉えられるべきものなのです。
 確かにXは情報が早くて便利かもしれません。が、何でも短期間で消費してしまい、その上一点集中、全体を見なければならない時に大変不便です。貴重な情報も元々関心を持っている仲間にしか伝わりません。 
 でも文学は全体を見ながら私的な考えに端を発し、他よりも速く気付きゆっくりと進みます。その上本来は公的メディアを使えるはずの立ち位置にいます。え?「じゃあ使ってみろよw」だって? しかしまあ文壇があれなので、……。
 でも例え一個でも大メディアのどこかに穴が開けばと私は狙っています。例えば東京新聞の大波小波は拙作の擁護から一番最初に、新聞に正確な女湯問題を載せたはずですよ。
 文学がジェンダーを擁護したらそれは偽物です。今現在、文学は私です。
 だって遅くとも2006年から、私はTERFでした。近未来ディストピア小説において、自認で女子トイレ女子風呂に入る男性や合法少女遊廓を、さらには七才になるまで性別の判らない気の毒なマイノリティ「火星人」を書いています。
 その結果12年後、ふいにこの『だいにっほん、おんたこめいわく史』は、……。

 拙作「返信を、待っていた」(『笙野頼子発禁小説集』所収)炎上中の横入りリプにおいていきなりトランス差別と認定されました。随分永い間糾弾を「免れて」いたんですね、また、その時に私は他の人々共にTERFと呼ばれるようになったのです。さらに5年超、……。

 少しでも取り上げるメディアが出来、ネットだけでも味方が増えてきたと思った途端に。私はにわかだと言われていますw でもね、文学の基本は反ジェンダーです。
 私を作家にしてくれた師匠、藤枝静男氏は戦中、共産党員に善意から協力して裏切られ、その結果五十日を越える拷問を受けた私小説家です。自分の性欲を罰するためにペニスを切り落とそうとし、傷と変形が残ったそうです。身体違和からではなくペニスを切ろうとしたケースなんですね。肉体から逃げないことは、私小説の基本です。
 今回『解禁随筆集』に収録した彼の作家論「会いに来てくれた」の中で、私は文学が反ジェンダーである事の必然性を述べています。今が女性の危機であるのと同じ位に文学の危機である事を訴えます。というのも、……。
 ジェンダー主義は女性の抹消、女消しであると共に、表現の自由ばかりか表現それ自体を壊滅させますから。その問題点はノーディベートだけではない。例えば、——主語の簒奪、記述の一貫性の不可能化や破壊、当事者の黙殺、基本的事実の隠蔽等で、これらは文学に必要な時系列や観察、理性、論理、言語に対する死刑宣言となります。なので現時点において、文学=女という程、書き手としてこの問題にこだわっていると、私は私小説目線で主張しています。
 ていうか、以前にも「文学は女だ(学術、マスコミを男とすれば女のような立場である)」と言ったことがあります。だって文学は弱い身体に言葉あるのみ、いつも奪われてそれでも死なないけど、でも奪われると同時にその本質を隠されてしまう存在だから。本物の文学こそない事にされるから。それはマスコミに出てばかりいるフェミニストが、偽物ばかりというのと同じ事です。例えて言うなら、……。
 マスコミ学術は米帝であり文壇は総督府、頂点に東○大学と朝○新聞がある。その一方現場は私小説からSFまで全部植民地、その中で彼らに与しない作品を書くこと自体が抵抗運動です。まあそんな状況でも私は案外に受賞してしまいますので、そうなると必ず仕返しをしようとする人々がいます。なので、……。
 今、文壇は私を過去の人として捨ててゆく気でいて、というよりもう完全に安心して忘れているようです。

 トランス反差別で笙野も追い出せる、一挙両得ですね。だけれども……。
 時代が変われば置いていかれたのがどっちなのか必ず判ります。私は売れないけれど、今は消されているけど、確実に文学史の「片隅」には残る文学です。でも、まあ彼らは片隅にある事さえ許さないのかも。
 だって今後の歴史的展開として、必ずTERFが正しいと判る日は来てしまうわけで、でもそうなってしまえばその時はその時、……。
 TERFが勝利するその日が来たら、文壇は平気で逆歴史を捏造して、「笙野はあのTRAだった」などと言うはずだからです。その上でさらに今虹漬けになって私を叩いている連中こそが「当時女性のために真に戦ったレジスタンス」などと持ち上げるはずです。
 ていうか基本、私の名前は絶対に出すまいとするでしょう。要するに彼らの「正史」なんてそんなものですよ。某党やマスコミなども当然に同じ。そして、……。
 他称TERF達の栄光ある地位も歴史もおそらく次世代のマスコミ御用達のフェミ達が奪い取ろうとするでしょう。何よりもその連中は平気で「令和の三次元にはプリキュアやセーラームーンのような女性はいなかった」というはずです。でも、……。
 私は絶対に言わせません。匿名の、市井のリアル・プリキュアがいた事を作中に残してゆきます。ていうか、すでに書いています。どんなに売れなくとも上から嫌われていても、私には長年の文学者としての蓄積があります。この文学の中に、……。
 富豪たちに一歩も引かず、今も戦う一般女性たちの活動を残します。この女性たちがオリジナルであると書き込んでいます。それが私の今書きたい文学です。

④は下記からご覧いただけます。


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