見出し画像

記録する150

思い出せない記録

私の記録シリーズを読み返していたら、思い出せない文章がありました。この時ってどんな気持ちで書いたのだろう、と私自身の思考に疑問を持ってしまいます。

論理が破綻していたり、文章のつながりが悪かったり、思考しきれていない部分があったりして少し恥ずかしくなります。その文章たちを読むと、もう少し考えて文章を書こうかな、と思えてきます。

私の雑な文章には誤字や脱字も多く、文章の推敲もしなかったことが伺えます。そういった文章を読んでいると、段々と仕方ないでは済まされないような気持ちになってきます。流石にもう少し見直した方がいいなと反省しました。雑な文章を残してはいけません、と、ここに残しておきます。

雑な文章で記録していると、当時の気持ちがうまく思い出せなくなります。曖昧な記録になってしまい、もはやそれは記録なのかと未来の私が疑ってしまいそうな気もします。

それに記録の仕方も上達しません。綺麗な記録、丁寧な記録、残す必要のある記録であるなら、もう少し頭を使って書いていきたいものです。

アウトプットを増やすのか、繋がりを増やすのか

noteを使っているといいねをしていただいたり、自身の投稿した画像を引用していただけることがあります。たまに、この人はどうやって私の投稿を見つけていいねを押したのだろうか、と不思議に思うことがあります。

いいねを押すことで他者に自身の存在を示し、自身の文章を読んでもらう、みたいなことをしているのでしょうか?考えが捻くれすぎですかね。

もしそうだとしたら、投稿を頑張るよりかはコミュニティ作りに励んだ方が、様々な人に読まれるのではないのか?と考えてしまいます。ただ、そんなことを考えていると、私は読まれたいから書いているというよりかは、残したいから書いているのであった、と本来の目的を思い出します。

本来の目的を思い出し、他者との関係性については考えなくていいや、と、この疑問を持つ度に毎回思ってしまうのですが、今回は考えないことがなんだかもったいない気がしました。

残すためにも他者と繋がっておいた方がいい。

その可能性もあるなと思います。様々な人が知った状態うぃ維持した方が今後も残っていく可能性が高いと思っています。私だけが知っているより、私の子供も知っている方が記録が長い間残っている気がします。

私だけが知っている記録は、私が死んでも残りますが、私以外はその記録を知らないので、他者の中では記録は存在しないことになります。あるけどない状態ですね。

他者の中にも記録を認知させることで、存在の記録が他者に残っていきます。その「残っている状態」をなるべく長い時間続けていくには、やはり他者の協力が必要です。

何かを作るだけではなく、誰かとの繋がりも記録には大事なのかもしれません。

鶏もも肉がなくて渋々帰る

近くのスーパーに鶏肉を買いに行きました。鶏胸肉じゃなくて鶏もも肉を買いに行ったのです。

しかし、そこにおいてあったのは鶏胸肉ばかり。少し値段が高くても美味しい鶏もも肉のほうが人気なんだなとしみじと思いました。

つみれが目に入り、夜ご飯をつみれ汁に変更してもいいなとも思いました。ですが先日買ったつみれが美味しくなかったので、つみれ汁を作るモチベーションも低かったので、結局なにも買わずに帰りました。

鶏もも肉はいつになったら手に入るのでしょうか。あと、つみれのはずれ商品もこの世から無くなってほしいなと思いました。

私が生きることができるようになります。