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フランスでショコラトリー店員になる#8 部屋探し②

中国人の友人から、”Colocation(共同借家)"の話が持ち上がった頃、語学学校の友人からも、同じ提案があった。

中心地でアクセスが良く、動きやすいという点で魅力があった。

しかし、問題があった。

彼女の友人が退居後に入る人を探していたのだが、同居者も退居をする為、私は誰と共同生活を送るかわからなかった。その上、部屋の仕切りは薄いカーテンが一枚あるだけで、ほぼ丸見えだった。それで新しい入居者は、男性の可能性もあると聞かされ、断念したのだった。


私は、片っ端から物件探しを始めた。


フリーペーパー、語学学校や大学の掲示板、インターネット…物件と名の付くものは全て目を通していった。そしてリヨンの地図を広げ、不動産屋にチェックをしていった。

先ずは中心地付近からだ。

就職が内定していたショコラトリーへの通勤のことも考えていた。


私はB5ノートに、表にして書き込んでいった。

左から

最寄り駅(何区かも)/家賃/CC(管理費込み)か/面積/特徴(日当たり良好…等)…それから広告主の連絡先。

そして、アポが取れたらその日程、駄目だったら”×”と書き込んだ。

連絡先にメールアドレスが入っていた場合は、メールでも問い合わせたが、返信が来ないことも多かった為、途中からは電話で直接聞くことに。

根気よく電話を一件一件掛けていったが、バカンス中ということもあり、なかなか繋がらず。繋がったと思ったら、もう決まったと言われ…私は、いつの間にか部屋取り合戦に巻きこまれていた。

少しでも自分が有利になるように、広告が出る日、朝一で広告を取りに行き、あちこちの不動産屋までの移動中にチェックし電話するという、五感フル活用状態で街を練り歩いていた。

不動産屋で、物件を印刷してくれるので、それをもとに電話もした。大体、どこの不動産屋も混雑しており、一人に掛かる時間もそこそこ長いので、かなり待たされた。

私の印象に残った不動産屋で、ローヌ河の向こう側の、大学近くの静かな所に、こじんまりとした不動産屋があったが、とても親切だったのを覚えている。しかし、大抵はアジア人学生を大切に扱ってくれる所などはなく、部屋探しはかなり難航していた。

リヨン中心地・ベルクール広場から延びる、賑やかなレピュブリック通りを歩いていると、左手に、一軒の不動産屋が目に入った。

重厚な木の扉からは、中の様子が伺えない。

私は、藁にも縋る思いで、その重い木の扉を押した。

石造りのひんやりとした薄暗い階段を上ると、小さな金色のプレートに会社の名前が書いてあるだけだった。

これって、ブザー鳴らしてもいいのかな…

ドキドキしながら様子を伺っていると、階段を下りてきた男性が不思議そうにこちらを見て、そしてそのまま

「Bonjour.(ボンジュール)」

とだけ言って、通り過ぎて行った。


えぇい、いいや!


ブッブ――――!!


意を決して、ブザーを鳴らし、暫くすると中から人が出てきた。

そこは従業員の出入り口なのか、すぐ左の似たような扉を荒々しく開け、私を中に通した。

こんな小娘がふらりと入ってきて、怪訝な顔をした不動産屋のマダムは、私に資料を渡し、そこに座るように言った。


重厚な扉に外の世界ときっちり区切られたようで、中の世界は緊張感すら感じられる『オフィス』のようだった。まるで私が透明人間かのように、座っている人のことは気にも留めず、皆忙しそうに働いていた。


ファイルだけポイと渡され腰かけたものの、一体どこから見て良いのやら…パラパラとページをめくり、辺りを見回し、近くを通ったマダムに声を掛けた。


「あの…コピーしてくれませんか?」


「Ah nononononononon!!!(あー駄目駄目駄目‼)ここで見ていってちょうだい!」


とピシャリ、言われた。


しょうがない。私はメモとボールペンを鞄から取り出し、手当たり次第良さそうな物件をメモしていった。


何分経っただろうか。


マダムがいつまでもいる私に気付き、


「ちょっと‼ いつまでいるつもり⁈ 私達だって忙しいし、他のお客さんだっているんだから、帰ってちょうだい‼」


と怒鳴られ…

私は、こぼれそうな涙を必死にこらえて、精一杯の皮肉のつもりで

「C'est très gentil, madame!!!(ご親切にどうも‼) 」

とだけ言って、すっと立ち上がり、力一杯重たい扉を開けて階段を駆け下り、不動産屋を後にした。

賑やかな外の世界に戻ると、私は道にしゃがみ込み、泣き出した。

こんな時、人の笑い声がよく耳に響く。

見知らぬ誰かに「大丈夫か?」と声を掛けられたが、私は泣き続けていた。

ずっとずっと好きだったフランスという国を、憎く思った瞬間だった。


泣きながら、電話を掛けたのは、ステイ先のムッシュの紹介で知り合った、日本人の友人だった。泣いている私に驚いた彼女は、すぐに出てきてくれた。彼女は長いことフランスに住んでいる、学生だった。

日本語で愚痴を聞いてもらうと、それまで張りつめていた糸が少し緩んだようだった。

彼女は、ローヌ河沿いにある、一軒の不動産屋を紹介してくれた。

そこで彼女は部屋を見つけたという。

しかし、そこは部屋の情報提供に先ず、登録手数料として150ユーロ程支払わなければならなかった。当時の私からしてみたら高額だったが、そんなことは言っていられなかった。


私はそこに登録すると同時に、今までやっていたこと――つまり、広告を見て、電話を掛けることを同時進行で進めていった。

するとようやく、少しずつ、部屋を訪問する機会が増え始めていったのだ。


人生初の訪問先は、小さなステュディオだった。

私は、不動産屋のムッシュとアパルトマンの下で待ち合わせをし、心を躍らせながら螺旋状の階段を6階まで上がった。(0階から始まるフランスの5階は、日本の6階になる。)途中、階段で、その前に訪問していた若い女性とすれ違った。

確か23平米で320ユーロ位だっただろうか。

不動産屋の担当者と部屋に入り


私は言葉を失った。


目の前に広がっていたのは、小さな小さな四角いスペースに、取って付けたような古ぼけた流し台。そしてそのすぐ横に、電話ボックス型のシャワーがぽつり、寂し気に佇んでいた。


呆然としている私を知ってか知らずか、不動産屋は笑顔で


「見てください、家具付きなんです!」


と得意げに言った。

部屋を見渡すと、あるのは埃まみれの染みだらけのソファー。

不動産屋のムッシュは、ソファーの上に積もり積もった埃を手で払い、背もたれを倒した。


「これ、ソファーベッドなんです!」


「…。」


「Eh voilà!!(という感じですね‼)」


自慢気な不動産屋の明るい声が、小さなステュディオに響き渡った。

しかし、私はもはや彼の言葉など聞いていなかった。

ただただ、この埃まみれの小さな部屋に圧倒されていたのだ。


「あぁ、それからトイレは共同なんです!どうぞこちらへ!」


部屋を出ると、細く赤茶に錆びた鉄の柵に、下が透けて見える狭い踊り場に出た。

手すりの隙間からは遥か下の方がよく見え、高所恐怖症の私は足がすくんだ。一歩踏み込めば、ズドン!と落ちそうな、頼りない踊り場に、恐る恐る一歩ずつ足を踏み入れた。

ふと右に目をやると、そこに見えたのは…


古びたトルコ式トイレだった。


そして、何も言葉が出てこないまま、くるりと向きを変え、私は元いた部屋に戻った。

改めて部屋を見回し、何か違和感を覚えた。

「あの…窓ないんですかね?」

「あぁ、窓ですか?ありますよ!ほら、あそこに。」


不動産屋は明るく言うと、玄関ドアの上を指さした。


ドアの上にある窓とは、非常口の緑の看板位小さな小窓のことだった。

しかも、ドアの上にある小窓など、届くわけがない。


静まり返った私に、不動産屋が笑顔で、

「どうします?」

と聞いてきた。


「少し考えて、連絡します。」

そう精一杯答えたが、予想外の酷さに私の頭の中は真っ白になっていた。

あんな窓もない、ただの汚い小箱のような部屋を笑顔で勧めてくる不動産屋を、何だか恨めしく思った。


結局そこは、やめることにした。


私の部屋探しは、また振り出しに戻ったのだった。

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