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言葉は着飾るものではなくて纏うもの

化粧品を扱う友人から聞いた話なのですが、香水を「つける」ものではなくて「纏う(まとう)」ものと表現しているそうです。

香りは自分の一部として全身に纏うものなんだよ、そう教えてくれました。

この表現を聞いた時は、ああ美しい表現だなと思ったものです。

香りが身体中を包んで、その人のらしさの一部となる。まさに「つける」のではなくて「纏う」ものなのだと腹落ちしました。

言葉のシャワーの中で思うこと

最近は、より様々な方のnoteを読ませて頂く機会が増え、多様な言葉を浴びる日々です。シャワーのように毎日言葉が降り注いでくる感覚です。

この言葉のシャワーを浴びながら、言葉というものは、もの凄くその人となりを表すものだと感じています。

一つ一つ丁寧に積み重ねるように表現される方、勢いよく弾ける言葉を投げかける方、選び抜かれた輝く言葉を美麗に並べる方。

百人百様。本当に様々です。

言葉を纏うということ

言い換えれば、言葉はその人の雰囲気そのものです。おそらくお会いさせて頂いた時も、同じ雰囲気を纏っていらっしゃることと思います。

そう、言葉も「纏うもの」だったのですね。

自分が自分でなくなるような着飾った言葉ではなく、自分らしさを映し鏡として外の世界へと誘ってくれる言葉。

そんな言葉こそが、自分が纏いたい言葉なのだと気付くことができました。

纏いたい言葉を選ぶということ

名は体を表すと言います。もともとは仏教の「名体不二(みょうたいふに)」から来ている慣用句なのだそう。

言葉は本質そのものだよという意味ですが、逆に言えば、なりたい本質に近い言葉を使い続けたらどうなるのでしょうか。

先ほどは「着飾った言葉を〜」と言いましたが、使い続けて着こなすことができれば?

それはそれで、言葉を纏った状態と言えるのではないでしょうか。

言葉は自分の想いであると共に、自分の願いでもあるのでしょう。

言葉を纏いましょう。内から、外から。在りたい自分で在るために。

まとめ

なーんて、香りを纏うという表現から、なりたい自分へと誘ってくれる言葉を纏うべきだなあと思った今日なのでした。

私は内から選びたい派ですけどね。好みの問題な気がしますね。

ちなみに、名は体を表すの語源「名体不二」は深く、普段は見ることもできないような阿弥陀仏様(体)の御利益を、南無阿弥陀仏と唱えることで(名)大衆でも受けられるという意味のようです。

南無 = “I believe”、阿弥陀仏。「信じてるよ、阿弥陀仏様」ということ。

って、中田のあっちゃんが言ってましたよ笑

色々調べたところ、その解釈で合っていそうな気もしますが、正直良く分からなかったので、まあ向いてないということは良く分かりました。

I believe myself.

ではでは。


<このnoteを書いたしょこらはこんな人です>


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