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今日も海月は夢を見る

海月は美しい。

透き通った体、絹のように柔らかい丸み、高雅なドレープ。海に同化するために進化したはずの体貌が、あまりにも綺麗なものだから、すっかり人間に見つかってしまった。

また、遠目に見る分には綺麗だが、近くに寄ると中々な容貌であったり、強烈な毒を持っていたりするのも、非常に"らしい"生き物である。

一方で、その優美な外見と引き換えに、持っていない物もある。脳である。

その透き通る御身をご覧の通り、海月には脳が無い。だから、考えることが出来ない。では、海月はどうやって生きているのか。

脳は、言ってみれば神経の集まりである。一箇所に神経が集まっているので驚異的な演算能力を出せるのだ。この点、海月にも集まっていないだけで、神経はある。むしろ全身にある。

そのため、全身の神経を使って、"前"が必要な時は"前"を認識することができる。一方で、意識しなければ前も後ろも無い。まさに、自由である。

海月は、端麗な容姿も、縛られることの無い自由も、概念を生み出す臨機応変さすらをも持ち合わせているのだ。

ふと思う。脳こそあるが、私は海月に優っているところがあるのだろうか。

所属に悩み、承認欲求に悩み、自己実現に悩む。恋に悩み、友人に悩み、仕事に悩み、家庭に悩み、未来に悩む。全部脳があるからだ。

そんな中で、私が見出した明確なアドバンテージは、眠りである。脳を休ませる活動と言われる眠り。休ませる脳が無ければ眠りも無いだろう。

あの眠りに落ちる至福の瞬間、そして目が覚めた時のまどろみ。終わりと始まりの体感。眠りこそが悩みの代償に手に入れた、制約であり解放なのだ。そう思っていた。

ところが、海月も眠るらしい。まどろむこともあれば、ハッと気が付いたように動くこともあるそうだ。口惜しいことに、悩みも無い上に、人生を楽しむ術まで持ち合わせているらしい。

それならば、これが最後だ。夢ならどうか。

夢は脳が記憶の整理を行う際に漏れ出た情報の集合体であると言われている。整理するべき記憶が無い海月では夢を見られまい。

夢には、全てが詰まっている。五感、想い、さらには、願いまで。そんな夢を私は何度も見てきた。あの夢までもを海月が見られるとしたら、悩みの代償は何も無いことになってしまう。

そう思っていたが、海月が夢を見られる可能性は残っているようだ。全身に張り巡らされた神経に記憶が宿っているとも考え得るらしい。そして、眠りだ。記憶と眠り。夢の条件は満たしている。

ここまで考えて、申し訳無いことを考えたと思った。夢は全ての生き物に平等にあって欲しい。神秘的で不可思議なあの体験を独り占めしようなんて、それこそ夢の無い話だ。

こうすると、私にはただ、悩みだけが残されてしまった。海月に対するアドバンテージはもう思い付かない。

いや、違う。あとひとつあるではないか。悩めることだ。

自分に、他人に、世界に。私は悩むし、悩まされる。悩まされるから苦しく、辛い。傷つき、落ち込む。

しかし、悩まされるからこそ、それを克服しようと、また悩むことが出来るのだ。

そもそも悩まない人生、全てが思い通りに進む人生。それが幸せなのかどうかは文字通り一生分からない。私は一生悩むからだ。

それならば、悩めることは幸せなのだと思いたい。それが私と海月を分ける、明確な答えなのだから。

悩む私を横目に、今日も海月は夢を見る。

心地良い波に揺られながら。


<このnoteを書いたしょこらはこんな人です>


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