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苦痛なことはやめるべきか

断捨離をしていて、読んでいない本がいくつか出てきた。その中の一冊がこれ。

ようこそ「料理が苦痛」な人の料理教室へ

自分に手をかけることの意味

私は1人暮らしなので、日常的に誰かのために料理を作る必要はない。そして料理に限らず、家事全般のやる/やらないを気分次第で決められる。中でも料理は「できないわけではない」けれど、好きか嫌いかと問われれば、特に「好き」とは言えず、どちらかというと「苦痛」の部類に入る。たまにやる気スイッチの入った週末にまとめて作り置きし、1週間それを食す。料理とはどちらかというと、生きるための手段、知恵的な感じで付き合っている。たまに作るおもてなし料理も自分の中に豊富なレパートリーがあるわけではなく、1.簡単で 2.見栄えが良く 3.容易に手に入る食材でできる という条件をクリアするものを必死になってGoogle先生に聞いているのだ。
もちろん、「苦痛なことは堂々とやめる」という手段も最終的には残っている。「食はすべて外食」という人も世の中にはたくさんいる。それだってその人の価値観だし、経済的にも健康面でも許されるのであれば、その選択肢だって充分にアリだと思う。

ただ、最近になって、もし料理や掃除など自分が気持ちよく暮らすためのことを一切しなくなる、つまり自分に手をかけることをしなくなったら一体どうなってしまうんだろう? という恐怖感が出てきた(家事全般だけではなく、化粧や洋服に気を使うなども広義には含まれる)。最近、めんどくさくて平日のランチにお弁当を持っていく頻度も少なくなってきていたので、自分の行動を振り返るという意味でも読んでみることにした。

やることとやらないことの選別

少し前に、「選択と集中」という本だか言葉だかが流行ったことがあったけど、まさにこの本も料理版の「選択と集中」だ。最終目標は「料理が食卓に並び」&「片付けまで済ませる」ことであり、その過程における課題解決が書かれてある。たとえば、”「買い出しが苦痛」なら買わずに済ます” とか、”「片付けが苦痛」なら、フライパンごと出す(友達がやってた!)、カフェのようにワンプレートで出す” など。また、作ることそのものが苦痛な時は、家族参加型。手巻きずしやホットプレートを出して、自分自身で料理してもらうというDelegation方式も提案されている。やるべきこととやらなくていいことの割り切りをする、自分がやりたくないことならほかの人にお願いしてみる。「全部自分でやらねば」という思い込みからの脱却と発想の転換がここにはたくさん書かれてあった。そもそも全部自分でやろうとするから苦痛なのだ。

何だって同じ

少し仕事の話をする。一緒に仕事をしている部下のITスキルが低く、仕事の効率に影響しているので、これを何とかすることが私の今年の目標になっている。1人は若いのでまだなんとかなりそうだが、もう1人はITに苦手意識のある女性だ(私より少し年上)。転職して半年。その間、私は課題解決の発想を教えてきてつもりなのだけど、どこをどう間違えたのか、もしくは勘違いされたのか、私がまるでITヘルプデスクのようになりつつある。「別に、プログラミングをやれるようになれって言ってんじゃないからさ、わかんないことは聞く前に調べようよ」そんな話をそろそろちゃんとしなければいけない(ストレスMax)。

私は、料理もだってITだってあまり変わらないと思っている。苦手なこと、苦痛なこと。最低限のことと少しのコツを覚えるだけで見える景色が変わってくるし、得られる結果が変わってくる。結果。それは料理で言えば食費や健康、家族のコミュニケーション。仕事で言えば効率(とそれが上がることによるコスト)、知識、マインド、といったところだろうか? 

人は年齢を重ねるごとに新しいことを受け入れにくくなるけれど、そのハードルを高くしているのはいつも自分自身だったりする。できないと見えない壁を作ってしまったり、思い込みに駆られてその場でフリーズしてしまったり。

それでもあえて自分の中に新しいものを少しずつ取り入れて、UPDATEしていくこと。それは、しなやかさを失わずに生きていくためのTipsのように思うんだけどな。

ぼんやりしまくって何の生産性もなかった3連休も終わりだ。
夜は更け、新しい日がまた始まる。

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