迷いがある!!
昔ある掲示板で大阪のおばちゃんカメラマンと知り合いになった。
ほどなくおばちゃんのカメラ仲間数人で行く兵庫県は竹田城の撮影会に誘われた。「天空の城」と呼ばれて有名な所だが東京に住んでいる私にとってはなかなか訪れるチャンスの少ない場所でもある。二つ返事でお誘いを受けた。
そのおばちゃん達カメラ仲間のいる掲示板があって、そこには"主(ぬし)"的な存在がいた。ご意見番とも、辛口の批評家とも言える住人で、掲示板にUpされる写真に関して縦横無尽に批評し切り捨てていく猛者であった。
件のおばちゃんも撮影してきた写真をUpするわけだが、それに対していろいろとキツイ評価が発せられた。その中でも特に印象に残っている言葉があった。
「写真じゃ無い!!」
「迷いがある!!」
私の好きな画家に熊谷守一という人がいる。抽象画的な画風ではあるが、牧歌的な安らぎのある作風で時々画集を開いては鑑賞している。
彼の著作の1つに『へたも絵のうち』というのがある。
彼の清貧と子供達を失っていく人生がえがかれており、東洋の仙人とも呼ばれた壮絶な生き様に誰もが圧倒される。
本の内容はともかく、私はこの題名が大好きだ。
撮影したヘタクソな写真を「へたも写真のうち」と励ましながら撮影を続けている。
一度でよいから「写真じゃ無い!!」写真
というものを見てみたい。
学校に入ったとき、座禅にハマった。
ある禅宗の学校であった。私は歴史を勉強していたが、4年間に1度は坐禅堂で坐禅を組まないと卒業できない、という嘘か誠か判らないウワサが学生の中に広まっていた。で、坐禅堂なる所に入って初めて体験した坐禅は実に面白かった。
お坊様が「追うな、追うな・・」と堂内に響く声。自分の腹の中にも響いてきた。禅定中の外部の音、というものは体自身に響いてくる。例えるなら、大きな釣り鐘の中に頭を入れて外からゴォ~ンと打ち鳴られた様な感覚であった。
それ以来ことある毎に坐禅をした。授業が終わると仏教学部の連中と一緒に坐禅をしたり、朝晩はもちろん夏休みなどは1日4時間くらい坐禅三昧であった。
今でも時々坐る。でも、このやったり、やらなかったり と言うのが良くないらしい。一般的に、「野狐禅」と呼ばれる。野っ原に住んでいる狐が禅をして人をバカせても悟りは開けない、そうだ。
ちょうどキータンに打って付けの呼び名であったので雅号にでもしようかと調べた所、先客が居た。
少しでも煩悩を減らし迷いを絶ち、悟りに至るための禅定であるのだが、現実は妄想がますます増大していく。
禅堂で座っていたら、小学校低学年の遠足時、はす向かいに住んでいるカヨちゃんに10円を借りて返し忘れた事を思い出した。そして1ヶ月位のちにカヨちゃんにそのことで怒られた。もう何年も前に忘却した記憶が多々蘇ってくる。ますます妄想は増えるばかり。一体、坐禅ってなんじゃらホイと迷いの海を漂っていたら・・座っている後ろに人の気配がぁ!!
そう、警策(きょうさく)が私の右肩におかれた。観念して合掌。頭を左にかしげた瞬間、バッチィ~ン と堂内にひびく大音響で右肩に打ち下ろされた。
正直言うと、あまり痛くない。ちょうど肩の肉の所に警策がうまく入る。むしろ大音響を聞かされた周囲の者達が震え上がる。
坐禅をしたから、警策を受けたからと言って迷いがなくなるわけでは無い。むしろ反対に多くのつまらない煩悩人生を思い出す。
夏目漱石も「夢十夜」で同じ体験をしている。文豪であっても聖人では無い。人の想いや妄想などに関しては平等なのかも知れない。
カメラを持って40年、年をかさむ毎に迷いは増える。
花は、本来美しいものである。それをより美しく撮るには?
女性は、本来美しい存在である。それをより美しく撮るには?
柏手を打った。さて、音は右手から出たのか、左手から発せられたのか?
答えの出ない問いかけに、答える術はない・・などと知った風な能書きをたれると問答無用で警策が飛んでくる。
昔、仙厓和尚というエライお坊様がいた。
一句 歌を残している。
坐禅して人か佛になるならば
キータン的に意訳してみると、
「坐禅をして人が仏になれるなら世話は無い! 坐禅などやっても無駄、無駄、無駄! やめろやめろ、このクソ袋!!」
ますます迷いが増えつつあるキータンでありました。
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