愛と論理性

寝起きにわかったことがあったので記したい。

私が敬愛してやまない方達にはそれぞれ、その人が物事を伝える分野で、その人らしいやり方で美しい論理性に貫かれていることがわかった。

今朝、夢に見たわけでは無いけれど、太鼓の師匠の非常に粘り強い論理性を伴った教え方を観じることができた。
それは長い文章でずらずらと話し続けるという意味ではもちろんなく、毎週一回それを1ヵ月から数ヶ月かけて、1つのリズムについて習得するためのアプローチをすると言うことだったりするのだが…

ある時、師匠は言った。
左脳的な理解も深めたいと思う。それは彼自身の理解を深める、という意味もあったかもしれないが、どちらかと言うと集まっている私たちが体を動かし、体で覚えることに加え、左脳的な理解を深めることで、リズムへの理解と確かな演奏を強化すると言う狙いがあったのかもしれない。

リズムや太鼓の話になると、もうそれだけで長文になってしまうので、今回はこれくらいにしようと思う。

ここで私が話したいのは、1人の人の有能さについてではなく一人ひとりの伝えることをしている人たちの特有の時間のかけ方、時間の配分、つまりペース、そこに自然に展開される。話の仕方。
それがいかに美しいかということなのだ、と思う。
長くもなく短くもなく伝えられるちょうど良い伝え方に心地よさを感じた時の深い感銘を私の記憶の底に積み重ねていると言うことに気がついた。

それぞれの人たちに共通するのは、膨大な、読書量などを通して出てくる言葉の豊かさや、目立たないところに表現されるぬくもりだったりする。

私はそういったものに知らずのうちに魅せられ、日をまたぎ、あるいは一定期間一緒に時を過ごすことで、一人ひとりの持っている形式美を観ずることにこの上ない喜びを感じている。

〇〇愛と言うが、そこにはその人ならではの放物線を描く周期がある。
私はそれを共に味わうことに無常の喜びを感じるのである。

この話は形を変えてまたしてみたいものだと思う。

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