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野田かおり『風を待つ日の』

 第一歌集。青磁社。2011年から2021年の10年間の歌を収録する。教師としての仕事の歌、日常生活を詠った歌、相聞、などどれもふんわりと美しいベールがかかったように描かれている。具体を詠ってもどこか異世界から見ているような視線が印象的だ。編年体ではなく、四季の部立てで編まれた一冊。

ひかりつつ鳥のねむりのかたちして祈りのなかにハクモクレンは

 白木蓮は桜よりも早く春を伝えてくれる花。この歌で詠われているのは蕾の状態だろう。白い鳥が丸まって眠っている様子が喩として使われている。「ねむりのかたち」という表現がいいと思った。「ひかりつつ」という言葉と共に、とても印象的で美しく、白木蓮を的確に表している。また丸まっている鳥に喩えることによって、頭を垂れて祈っている様が想像できる。白木蓮が祈っているわけではないが、喩の力だと思う。

いちごしふぉんいちごしふぉんといふときの頬のあたりがふあんな春だよ

 シフォンケーキは軽くふんわりした食感と同時に「シフォン」という言葉の響きが軽くふんわりしている。この歌はその音に主眼を置いた歌。ひらがなで繰り返される「いちごしふぉん」という音が軽やかでありながら、ふわふらしてあてどなく頼り無い印象を与える。その語が下句の「ふあん」という語と不安な気持ちを連れて来る。音の面白さに心情を上手く重ねた歌。

高く高くシャトルを撃てば水鳥のはねの残滓が宙にこぼれて

 バドミントンをしているのだろう。シャトルは水鳥の羽根で作られているが、激しい打ち合いなどの後にはコートに羽根の残骸が散っていることが多い。大方の人はそれを「シャトルの」羽根が散っていると考え、元々の「水鳥の」羽根が散っているとは思わないだろう。「水鳥」「残滓」という言葉を使うことによって鳥の無惨な様が読者の脳裏に浮かぶ。またこの歌では羽根はまだ床に散っていない。シャトルがラケットの面に当たった瞬間の「宙にこぼれ」た瞬間を捉えて詠っている。動的な魅力もある。

職歴のしづかなること思ひつつ西瓜の種を吐き出してをり

 作中主体は教師。教師になるまで色々な職歴を積んだ、という人はどちらかというと個性的な異色の先生で、大抵の教師は教師しかしたことが無い。履歴書を書いたら、大学卒業後、勤めた学校の名前が淡々と並ぶだけだ。西瓜を食べて種を吐き出すという単調な作業に自分の単調な職歴を思っているのか。職歴に対して「しづか」という把握がいいと思った。

さう言つて差し込む舌は いつまでも打たれてゐたい夕立だつた

 性愛の場面。この一首から「さう」の内容は分からないが、前の一首から相聞の相手の「泣くのか」という言葉かも知れない。しかし実際にはどんな言葉でも歌の美しさには関係が無い。何か言って相手が舌を差し込んできた。愛の行為を一字空けで、三句以下に夕立ちに喩える。結句の「だつた」から、いつまでも続いて欲しいと思った行為が既に終わったことが分かる。この歌を含む「umbrella」の一連は相聞と雨を絡めて描き、どの歌もとても美しい。何度も読み返したい一連だ。

麻酔より覚めし夕べに輪郭のやさしき林檎置かれてゐたり

 何か大病をしたのだろう。しかし病気をしたらしい歌はこの歌を含めて二首だけで、あまり深くは触れられていない。麻酔から覚めた、ということが病気が軽くないことを感じさせる。麻酔を打つ前に医師はリスクを説明するものだ。どんな患者も「麻酔から覚めない可能性」を考える。それだけにさらりと詠われていても、麻酔から覚めたという感慨は強い。誰か近しい人が枕辺に林檎を置いてくれていて、それが夕方の弱い光の中に見えた。輪郭がやさしい、というのは丸みがあることだろうが、置いてくれた人のやさしさも言っているのだろう。

草色の付箋は多(さ)はとそよぐなり開けば本の岸があかるい

 「多」と書いて「さわ」、さわは多いという意味。この歌の場合は多いということと「さはさは」というオノマトペの両方を兼ねている。草色の付箋がたくさんついた本。それは川辺に多くの草が生えて、さわさわと風に揺れているような風景を連想させる。その本を開けば、知の川の岸辺である本のページの白さが、光を受けて明るいのだ。

家族とはもの喰ふひとの集まりと素焼きの皿に秋刀魚を取りて

 上句が発見を表す。共に食事をすることが家族の原点なのかもしれない。素焼きの皿という気取らない器に秋刀魚を取り分ける。今では安くないが、秋刀魚は長い間大衆魚であった。焼いた秋刀魚を囲んで共にものを食う人々。それが主体の家族。特に感情語を使っていないが、生活のシンプルで確かな安定感が心地良い。

わたしたち働く駒でオムライス崩してゆけばあかるい夜だ

 働くことは何かの歯車になること。大きな将棋盤の上で試合が行われていたとしたら、「わたしたち」はその駒の一つでしかない。「働く駒」という表現には、使い捨て、取り換え可能というようなマイナスの意識と、でもその駒が働かなければ社会は回らないという自負が感じられる。働き終えたらもう夜で、整ったオムライスを崩して食べてゆく。中から赤いケチャップに染まったライスが現れる。働くことに対して、大変であっても嫌いではない、そんな「あかるい」気持ちが感じられる。

扉なき聖堂のごとほの白き桜は夜を埋めてゆきけり

 夜桜を見に行った主体。どこかの空間に多くの桜が咲いているのだろう。もちろん屋外。しかし桜の並木が建物の壁のように感じられる。ほの白く輝く、聖堂の内部にいるような感覚を持つのだ。扉の無い聖堂。その美しさは夜桜の美しさを知る人なら誰もが思い浮かべることができるだろう。「夜を埋め」るという把握もうなずけるものだった。

青磁社 2021.7. 2200円+税

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