批評用語の持つあやうさについて(前半)【再録・青磁社週刊時評第九十五回2010.5.24.】

批評用語の持つあやうさについて(前半)   川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

 『短歌研究』6月号の座談会「批評の言葉について」(坂井修一・大辻隆弘・斉藤斎藤・花山周子)を読んだ。私の問題意識に触れてくるタイトルであり、特に最初の部分の、大辻隆弘の次の発言には頷くところがあった。

大辻 ゼロ世代の短歌の批評を考えていくと、穂村さんの批評用語の重要性が大きいよね。穂村さんの批評用語というのはよくも悪くも歌壇の動向をきちっと名づけてしまう。それはたしかに鋭いんだけど、名づけられた瞬間、みんなその言葉で思考停止になってしまうというか、何かわかったような気分になってしまう。そこがちょっと危うい。

 問題となっているのは穂村弘の「棒立ちの歌」「武装解除」といった用語についてである。穂村の作り出す批評用語が、従来の批評用語にない新鮮で奇抜な言葉の用い方をしている事と、いかにも、「うまい事を言ったな」的に、時代の空気を掬い取っている点が受けるのであろう。それに皆が感心して、その用語を使って短歌の批評をする、場合によっては自分も何かそうした用語を作り出そうとする、というのが最近の短歌批評の一つのパターンになっているように感じる。
 しかし、私は批評の用語についてはもっと慎重であるべきだと思っている。批評をする際には、自明のことと思われる批評用語でも、ある程度、語義を確認してから使い、理解の齟齬を避ける努力が必要だと考える。「うまい事を言った」ように見える新しい用語ならなお一層慎重に扱うべきで、語義を確認することなく安易に批評に使うのはあやういと思う。さらに、その風潮に乗っかって、自分も新しい「うまい」批評用語を作り出そうとする態度には危惧の念すら持つ。この時評でも過去に「ポストニューウェーブ世代」という語を批判したり、また他のところでも川野里子の「透明な瓦礫」という語を批判したように、そうした語には定義の曖昧さが常に付きまとい、評論の明晰さを曇らせる危険性があると思うからである。
 現にこの座談会でも大辻の発言の少し後に斉藤斎藤
  
斉藤 …穂村さんの「棒立ちの歌」に取り上げられた歌には、無自覚に棒立ちな歌と、自覚的に棒立ちな歌がまざっているんですが、(…)上の世代には、アイロニーが意識的に消された歌と、最初から棒立ちな歌との区別がつかなかったんだと思うんです。…

 と述べている。「棒立ちの歌」に二種類あって、その差が一読して分かり難いのであれば、「棒立ちの歌」という批評用語は、私には有効なものとはとても思えない。2000年12月の短歌研究臨時増刊号『うたう』の座談会(俵万智・穂村弘・加藤治郎・坂井修一)では、「無自覚に棒立ちな歌」は「棒立ちのポエジー」がある歌、「自覚的に棒立ちな歌」つまり、わざと修辞をはずした歌は「一周回った修辞のリアリティ」がある歌と呼ばれていたのだが、10年近い時間が過ぎて、現在斉藤斎藤は「棒立ちの歌」に二種類ある、と言っている。(さらにアイロニーの問題までこの語に含めて説明している。)このように、語義が曖昧だと表すものがずれていってしまう危険性があるのだ。

(つづく)

この記事が参加している募集