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藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』(新潮新書)

 明治時代に遡って、日本に入って来た近代建築のルーツをたどる。日本にある多くの近代建築を「そもそも」から解き明かす。建築家の名前とその師弟関係なども分かって興味深い。私は洋館と呼ばれる、西欧風の建物が好きだ。この本を読めば、ただきれいな建物だと言って眺めるより、理解が深まり、近代建築が益々楽しめる。文章も軽快で面白く、建築の素人が読んでも素直に楽しめる。

〈伝統的な家の暗さは半端ではない。私は小学校二年まで江戸時代に作られた茅葺民家で過ごしているが、学校から帰って家の中に入るとすぐ立ち止まり、暗さに目を慣らしてから次の行動に移らなければならなかった。〉「第1講 明治政府が捨て置けなかった大問題」より

〈どうして日本の天皇を迎えるために洋館が必要になったのか。
 成立したばかりの明治の新政府は天皇の性格付けを巡って判断に迫られる。江戸時代を通しての長い間、天皇は和歌をよくする王朝文化の保持者として政治にも軍事にもかかわらず過ごしてきたが、明治維新を導いた”王政復古”の理念に従い、基本的性格を変えなければならない。
 この変化をリードしたのは西郷隆盛で、まず古(いにしえ)のように天皇も国の政治的決定の場に臨むようにし、”馬上の人”、具体的には軍の最高統率者となる。そして衣食住の洋風化を決めた。「第2講 天皇の行く先々に洋館出現」より
 天皇は江戸時代の間、政治と関わらず、「和歌」を専らとしていたのだ。

 明治宮殿、東京都「江戸東京たてもの園」旧三井家、現・六義園とその周辺、ジョサイア・コンドル設計明治29年岩崎久弥邸(東京都台東区)、保岡勝也のパターンブック、山田淳設計岡田邸、など和洋折衷の邸宅やそれを手掛けた建築家が紹介されている。

〈ソファー、サイドテーブル、サイドボードを”応接三点セット”といい、ようやく敗戦の痛手から立ち直った時代の市民のあこがれの的となった。当然、家具業界の売れ筋となり、家具業界が花嫁道具の和家具から洋家具にシフトするきっかけを作ったのはむろん、他の業界にも影響は及ぶ。
 戦後、新たに暮らしの中に入り込んできたサイドボードの中に何を置く。それまでの日本の家具にはなかった全面ガラス戸の洋風の飾り棚の中に、日本人は何を並べたのか。思い出すと気恥ずかしくなるが、"洋酒"と"百科事典"。〉これは昭和40年代ぐらいの流行か。私の実家でも親戚の家でも友達の家でも皆こうだった。差と言えば、洋酒の銘柄と百科事典が文学全集だったりぐらいで、どこの家にもあった。別の部屋にはテレビとコタツがあり、コタツの上にはみかんが盛られたカゴが置いてあったものだが。

〈古来、住宅建築の発展をうながしたのは接客だった。(…)
 神さまを迎え、もてなしたのが接客空間の起源で、以来、神さまが仏教と僧に、僧が武士や大名に、大名が外国人に、と入れ替わりながら続いてきた。〉

〈明治以後、公的な建築の中では靴を履いて過ごすことが始まり、やがて定着してゆくが、定着に大きな役割を果たしたのは、学校と建築であった。〉「第3講 突如現れたスリッパ問題」
〈小学校については校内土足厳禁状態が学制発布依頼140年以上も守られているのは何故だろうか。
 大学はどこも土足のまま上がるから、小学校と大学の間のどの段階で校内は土足に変わるのか。
 中学校か高校か。靴脱ぎを巡る謎は多い。〉
 このスリッパ問題の講、面白かった。学校は大学こそ靴で入るが、幼稚園から小中高までどこでも二足制を採用しており、学校の中では上履き、もしくはスリッパを履くことになっている。ただ、昭和40年代から50年代は中学や高校で土足のところもあったはずだ。掃除が大変とか校舎が傷むということで徐々に二足制に変わってきたと思うが、いつ、どのように入れ替わっていったのか、また土足はずっとその前から土足だったのか、知らないのだが。

〈私たち近代建築史家は、新しい未知の煉瓦造を見つけると、フランス積みかイギリス積みかを見て、明治20年より前か後ろかを推定したものである。世界遺産となった明治5年の富岡製糸場も、日本の煉瓦造の基礎を決めた明治6年の銀座煉瓦街も、もちろんフランス積み。
 一方、現在見ることのできるたいていの赤煉瓦建築は、法務省にせよ大阪市中央公会堂にせよイギリス積み。〉「第4講 銀座煉瓦街計画と謎の技術者」
 フランス積みは一段に長手と小口を交互に繰り返し、イギリス積みは一段を長手だけ、次の段を小口だけとする。

次の講ではアーチ技術の代表として長崎市の〈眼鏡橋〉、熊本県上益城郡の〈通潤橋〉が挙げられている。さらに話は大理石へと至る。

〈当時、ヨーロッパの建築デザインは、とりわけコンドルの育ったイギリスのデザインは古代ギリシャ、ローマを源とするクラシック系(古典系)と中世キリスト教建築に発するゴシック系の二つに分かれて競合し、コンドル青年はゴシック系の中枢で学んでから来日し、当然のようにクラシック系を嫌いゴシック系を好んでいた。(…)
 来日したコンドル先生は、(…)現存する例では、〈三井倶楽部〉、〈旧古河邸〉、〈旧島津邸 現・清泉女子大〉、〈旧岩崎家高輪別邸・関東閣〉といった石造の洋館を作っている。〉「第5講 国産大理石はどこにある」

〈こうした幕末から明治中頃までの石材事情を一変させたのは辰野金吾による日本銀行本店の建設だった。(…)
 当時、日本か海外で本格的教育を受け、帰国後、本格的洋式建築を作る経験を持つ者としては、フランス派の山口半六、ドイツ派の妻木頼黄(つまきよりたか)、そしてコンドルに学びイギリスに留学した辰野金吾の三人がいた。(…)
 それまでの辰野はコンドル先生の影響もありゴシック系をもっぱらとしていたが、ゴシックのような色取り豊かで賑やかなスタイルは、中央銀行のような国家的建築にはふさわしくない。ギリシャ神殿に源を持つ重厚で理知的なクラシック系こそ明治の国家の記念碑に合っている。〉

〈辰野の同級生で宮廷建築家となった片山東熊も。皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に建てられた〈表慶館〉(明治41年)と、新婚用宮殿としての〈赤坂離宮〉(明治42年)に全面的に瀬戸内産の御影石を投入している。(…)どれが一番かと聞かれれば、大正5年の〈三井銀行神戸支店〉と答えたい。まず設計者の長野宇平治がいい。(…)しかし、1995年の阪神淡路大震災の時、崩壊し、今はない。〉

〈かくして始まった国産大理石の時代は、〈国会議事堂〉(昭和11年)、と〈東京国立博物館〉(昭和12年)でピークを迎える。〉
〈そんな国産大理石事情の中で、住友の建築家、長谷部鋭吉は一つの決断をする。住友の総本山ともいうべき大阪の〈住友本店〉は本場イタリア産にしよう。目を付けたのは〈住友家須磨別邸〉(明治36年)建設の時、暖炉用に赤坂の大理石を納入した矢橋大理石だった。(…)
 当の矢橋はというと、大理石業を始めた太郎が結核に倒れ、絵の道へと転身し、機械技術者の弟の亮吉がしぶしぶ家業に入っていた。
 大正11年、住友から大量の注文を受けた24歳の亮吉青年はどうしたか。海外のことなど何も知らぬまま”大理石ならイタリアだろう”と船に乗り、トリエステ港を経て身振り手振りでなんとかミラノまでたどり着く。〉
 明治人すごい。よくもこんな大雑把なことで海外まで(それも明治時代に!)行って、大理石の買い付けなんてやったもんだ。結果的に最高級のヴィチェンツァ産を輸入するところまでいくんだから、その度胸と先見性には驚く。
〈国産だけの〈国会議事堂〉(昭和11年)と〈東京国立博物館〉(昭和12年)、それに対しイタリア産の〈住友本店〉(昭和5年)。三つの建物を見比べると、量も質も日本の大理石産業の未来はどっちにあるかは明らかだった。
 現在、(岐阜県大垣市)赤坂の矢橋大理石店を訪れると、〈旧亮吉邸〉には赤坂産の大理石が各種使われ、石置き場には、最初に買い付けたヴィチェンチーナ社の石、さらに、イタリアだけでなく、東欧、アメリカなど、大正11年から現在までの97年間に世界中から買い集めた背の丈を越える原石、もしくはその残りが並んでいる。〉

 ヨコハマに誕生した和洋折衷スタイルの洋館が紹介されている。「第7講 乱立する奇妙な洋館群」より。
 〈横浜フランス海軍病院〉(慶応元)、〈横浜山手イギリス仮公使館〉(慶応3)、〈築地ホテル館〉(明治元)、ブリッジェンス・清水喜助・高島嘉右衛門(かえもん)らによる〈イギリス領事館〉〈横浜町会所〉〈横浜税関〉〈グランドホテル〉〈新橋駅〉〈横浜駅〉。東京・兜町の〈第一国立銀行〉。しかし、明治2年の〈新潟税関〉、8年の〈慶応大学演説館〉など少ししか残っていないそうだ。

〈コンドルは来日するとすぐ、学生たちに”建築とは何か”と題した講演を行い、印刷物として渡している。講演の中で力説したのは美の重要性だった。美を意識して作られた建築をアーキテクチャーといい、実用性だけではビルディングに過ぎない、と。〉「第8講 コンドル教授が育てた4人の建築家」より
 この本の中で一番感動した部分かもしれない。

〈工部大学校造形学科(現・東大工学部建築学科〉の初代教授として明治10年にロンドンより来日したコンドル先生の任は二つあった。一つはもちろん日本人学生に建築学を教えること。もう一つは明治政府のため本格的洋風建築を設計し、職人を指導して建設すること。
 明治10年から21年にかけての11年間、御雇外国人建築家として手がけた建築は〈築地訓盲院〉、〈開拓使物産売捌所〉、〈上野博物館〉、〈有栖川宮邸〉、〈伏見宮邸〉など多岐にわたるが、コンドルの名を明治史に刻んだ作品としては〈鹿鳴館〉が名高い。〉

〈最年長の曽禰(そね)達蔵は先生の次の年の生まれ。続く辰野金吾と片山東熊は曽禰の一つ下。最年少の佐立七次郎は三つ下。それぞれ、武士の子として生まれ、維新の嵐の中を懸命に潜り抜け、今はまだ見ぬ本格的西洋建築に生きる道を見出している。〉

〈明治の建築界は辰野金吾を中心に形成され、敵対する者はいなかった。ただ一人を除いて。
 妻木頼黄(つまきよりたか)である。二人は、国会議事堂の設計を巡って激しく対立する。(…)腕は良く、細部と全体のプロポーションも破綻を見せない。現存する作品としては国の外国専門銀行であった〈横浜正金銀行本店〉(現・神奈川県立歴史博物館、明治37年)や〈日本橋〉(明治44年)がある。〉

〈山形有朋をバックに、近代日本の最初で最後の宮廷建築家となった片山東熊について続ける。
 代表作は〈赤坂離宮〉(明治42年)をおいてほかにない。(…)
 この時代、王制の残る国でも王宮を新築することは稀だったから、ウィーン新王宮(1906年)に続いて完成した〈赤坂離宮〉は、ヨーロッパ系王宮建築として最後の作となった。〉

〈平成五年、東京初の歴史博物館として江戸東京博物館が創設された時、失われゆく戦前の建物を移築して野外博物館〈江戸東京たてもの園〉(東京都小金井市)も作ることになり、協力することになった。〉「おわりにー〈江戸東京たてもの園〉への招待」
 愛知県犬山市の「明治村」のようなものだろうか。一度行ってみたい。藤森は江戸東京博物館館長とのこと。それなら内容は間違いないものだろう。

新潮新書  2019.10. 本体800円(税別)




 

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