日本文学が亡びるとき―未来ではなく現在の問題として(前半)【再録・青磁社週刊時評第二十五回2008.12.1.】

日本文学が亡びるとき―未来ではなく現在の問題として(前半) 川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

岡井隆 だから、文学は滅びました。短歌は滅びました。(…)滅ぶのではない、もうすでに滅んだのだ。過去形。だけれど、それはあの短歌が滅んだので、この短歌はまだ生きているという、そういうことなのではないかな。(…)まあ、小説だって完全にそうでしょう。われわれが知っている小説は今やないのです(笑)。
    (「語る短歌史⑮文学の変質と東京移住」『短歌』2008年7月号)

川野里子 ただ、今我々にとってリアルなのは、近代リアリズムの賞味期限切れというものではないか。
            (吉川宏志評論集『風景と実感』批評会報告記)

 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房2008年)が話題である。ネットのブログでも賛否両論、それゆえに大いに売れているとも聞く。
 水村の主張の大意はこうだ。グローバリゼーションが浸透し、かつインターネット全盛の時代である現在において、英語はかつての〈普遍語〉であるラテン語に近い位置を占めている。学問は英語でなされなければ世界的には通用しない。今後、「叡智ある人々」は学問だけでなく文学においても英語を選択するようになるだろう。その時、日本語は亡びてしまう可能性が高い。それを防ぐためには、英語教育を縮小し、国語教育にもっと力を入れるべきだ。それも日本近代文学を読み継がせることを主眼にすべきである。
 注意しなければならないのは、水村の言う「日本語が亡ぶ」というのは、ユネスコが「現在地球上にある約6700の言語のうち、少なくとも約半数が今世紀中に絶滅する危機にある」と述べているような「絶滅する」とは違うという点である。言語として存在していても、読まれるべき文学を持たない言語に堕する、というのが水村の言う「亡びる」ということなのだ。
 英語が世界の〈普遍語〉として君臨する世紀において、日本語と日本文学がグローバリゼーションの波の中で生き延びていくために、もっと日本語を教育の場で大切にすべきだ―このあたりの主張はよく理解できる。
 しかし問題なのは、英語に圧倒されて将来日本語が亡びることを危惧しているようでありながら、実は水村自身は現在の日本の文学に対して、もう亡びたも同然のような感慨を抱いていることだ。
 例えば以下は、彼女も全面的に賛成している友人の発言と、それに続く彼女自身の現代文学の印象である。

(…)「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていて―なにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない。」(…)
(…)「荒れ果てた」などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。(…)

このように水村が嘆くほど日本の現代文学は衰退しているらしい。

(続く)

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