大雑把な若者観(前半)【再録・青磁社週刊時評第六十回2009.8.24.】

大雑把な若者観(前半)          川本千栄

 (青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
 『短歌往来』9月号の対談「社会と短歌のゆくえ」(対談―岡井隆×松本健一)を読んだ。社会学・歴史学関係で多数の著書を持つ松本は短歌にも造詣が深い。松本岡井の対談は、社会の変化と短歌―あるいは日本人の叙情の形式の変化を重ね合わせて考える、という読み応えのあるものだった。松本は、百年に一度の経済危機といわれる現在の社会状況を、石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いた明治末年や、世界恐慌の影響を受けた昭和四年頃と並べて、共通する部分をあぶりだしている。松本の〈若ものの雇用の無さ、非正規の派遣社員の若ものが次々に首切られるということを身に沁みて辛いと思うこと、あるいは首を切られないでも本当に今の社会に夢が無いような感じをどう表現するのか。(…)どうしてこんなに辛いんだろう、どうして追いつめられてるんだろう、啄木の言う「時代閉塞の現状」に近いような、そういう感覚を持っている〉といった分析は興味深く読んだ。
そうした社会状況の把握や、短歌の読みを巡る部分は面白いと思ったのだが、対談を通して気になったのが、二人の若者観が随分大雑把だということだ。まず「若者」がどのぐらいの年代を指すのかも随分揺れる。例えば、松本は、大学生や非正規雇用に悩む世代と共に、オウム事件を起した世代をも「今の若者たち」と言っている。岡井は、四十代後半のニューウェーブの歌人もその下の世代もすべて若者と呼んでいるので、どのあたりを指しているのか甚だ曖昧だ。
 さらに、今の若者はこうだ、と大きく括っている若者観そのものがかなり一面的な印象も受けた。

岡井 〈さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに〉(笹井宏之)という歌、相手は雪という存在。実はこれ自然詠なんだけれども、現在の若者にとっての自然詠っていうのは大体こんな感じでね。
松本 精神の中に天然自然が無いんですね。
岡井 無いんですねぇ。雪と言ったって蛍と言ったって、蛍も見てないし雪も見てないんで、あるいは見ていてもね、我々のような花鳥風月の様な形で使われていた蛍であったり、土であったり、雪であったりしないんだよね。(…)雪っていう物を持って来ているのは、白く降ってくる物を、人間ではない物、そして人間の死とは関係なく降り続ける雪であると考えている。
松本 そういう物質とか現象ですよね。(…)若い人の短歌を読むと、自然も記号であって、イメージが広がって行かないんですね。

(続く)

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