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西藤定『蓮池譜』

 第一歌集。現代短歌社。第八回現代短歌社賞受賞作を基本に、2014年から2021年の作品300首を収める。世界に対する知的な把握と、明晰で正確な描写が光る。自然の風景や人物だけでなく、自己の周囲の事物も描き出し、時代を活写する。中盤以降の家族を詠った歌も印象的だ。

がまの穂は暗渠の口にひかりたり善いものを愛するわけでなく

 おそらくコンクリート造りの暗渠の入り口にがまの穂が光っている。茶色い穂が秋の陽光を受けて金色に見えるのだろう。光も水も吞み込んでいく暗渠の前で揺れているがまの穂。上句の情景に、下句の感情が添えられる。善いものだからと言って愛するわけではない。愛することに善かどうかはあまり関係が無い。正論に依らないつぶやきが、上句の情景の確かさによって、リアリティを持って読者に手渡される。

血の汐を泡立てながら遡上する深海魚群きみの目に見ゆ

 深海魚群が遡上する、という光景は現実のものだろうか。鮭などの遡上を想像しながら読んだ。血の汐を泡立てるという凄まじいエネルギーは生殖に向かう魚の持つものだ。殺気立ったように川の流れを遡る魚たち。そんな切羽詰まった本能のようなものの閃きが「きみ」の目に見えた。「きみ」も何かに駆り立てられているのだろうか。「きみ」の思いが主体に向かっているような、しかし主体はそれを受けとめ切れないような印象を受けた。遡上する深海魚群を想像すると不気味だ。

間が悪く手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」という

 仕事を頼まれた場面。勝手に閉まるはずの自動ドアが閉まらない。手で押し返すと、やけに重い。そんな手ごたえで「やれます」と言ってしまった。自分の力量も問われるし、なかなか面倒な仕事なのだろう。断ることもできたのかもしれない。積極的に受ければ相手からの好感度も上っただろうが、そのタイミングは逃してしまった。出来る出来ないや、やった場合のメリットを推し量って、断ろうかどうしようか逡巡した姿を相手に見せてしまった上での「やれます」。言った後まで主体には迷いがあるようだ。

自転車はあしながばちを追い抜いて抜き返されて水辺に到る

 休日のサイクリングを楽しんでいるのだろう。主体の乗る自転車は飛んでいる足長蜂を追い抜いた。足長蜂はのんびり飛んでいたのだろうが、主体の自転車に抜かれた後、突然加速して自転車を抜き返した。ぶーん、という音を立てながら蜂が追い抜いて行く。やがて自転車は水辺に辿り着いた。湖だろうか。広々とした風景が眼前に見えるのだろう。のんびりした休日、おそらく天気も良いのだろう。自然に包まれる、とても気分の良い歌。

百日紅はつはつひらく坂道をのぼればのぼるほど雲が重いよ

 百日紅が少しずつ咲き始めているのだから初夏だろう。空には雲が浮かんでいる。坂道を登る時に雲が重いという身体感覚が新鮮だ。登れば登るほど雲に近づいていく。四句九音がいかにも重たい。真夏の白い積乱雲というより、梅雨の終りの灰色の雲を思い浮かべた。

この臭いで胎より出でし私かと だがたちまちに慣れてしまいぬ

 屠畜場を訪ねた主体。何よりも印象的なのは匂いだった。「臭い」という記述からそれが不快な臭気であったことが分かる。その「臭い」を持ちながら自分も母親の胎から産まれ出てきたのか、と想像する。哺乳類は血に塗れて産まれてくる。血の匂いのする屠畜場で、自分が産まれて来た時の匂いと同じなのだと考える主体。ここまでなら短歌の素材としてあるかも知れないが、この歌は下句が絶妙だ。動物である自分の生誕にまで想像を及ばせたものの、あっという間にその臭気に慣れてしまった。どんな不快なものにもたちまち慣れる人体の不可思議さと逞しさ。あるいは身勝手さ。

アメリカにいってこいよと俺に言う そのうちね、この鮭を焼いたら

 中盤、祖父の死を中心にした家族詠の一連がある。主体の祖父は癌の闘病中も病院に文句を言い、好きに行動しているようだ。鮭のカマを自ら買って焼くなど、鮭に思い入れがある。しかし病状は進行し、吐いたり、主体に肩を借りて支えてもらったりするようになる。そして引用歌のように主体に、鮭を焼いてもらうようになる。そんなに病状が進んでも、アメリカに行って来い、と孫の将来を気にしている。下句は会話体で、主体の発話である。アメリカに行くまでの「そのうち」、と「この鮭を焼いたら」までには大きな時間の落差がある。そしてその落差の中に祖父の死が予想されているのだ。飄々とした発話に、却って主体が祖父の死を強く予感していることが感じられる。 

病室は人から花が咲きそうな湿り気の部屋丘のふもとに

 前の歌と同じ一連から。病院に対して悪態をついていた祖父は、入院した途端、一気に病状が進む。親族が集って来て、病室は人いきれで湿度が上る。それを「人から花が咲きそうな」というやや不気味な比喩で表す。デフォルメされた絵のような印象を与える表現だ。丘のふもと、という位置の描写も却って病院の位置を曖昧にする。死に近い祖父を見舞いに集って来た人々。生者の息は常に花の匂いのように生臭い。

淵をゆく白鯉のよう傘越しにのぼるエレベーターの明かりは

 「傘越し」なので雨が降っているのだろう。傘はビニールの透き通る傘なのだろう。その傘を通してシースルーエレベーターを見ている。明かりが見えるので夜。ビルを昇るエレベーターが淵を泳いでいく白い鯉に見える。淵の水を通して見る鯉のように、エレベーターも輪郭がぼやけている。鯉の動きのようにエレベーターの動きも揺れているように見えるのだ。光景があざやかに見える歌。

体温になった楽器が冷えていく長い休符が平日だろう

 楽器はトロンボーン。金管楽器は元々冷たいものだという印象があるが、吹いているうちに、少しずつ体温に近づいていくのだろう。人の息を吹き込まれ温まっていく楽器。しかし演奏を止めれば楽器はたちまち冷えていく。おそらく演奏中の休符の間にも。仕事が休みの時にしか演奏できない、平日は一切演奏できないのだとしたら、平日は休符と同じ事。長い長い休符だ。冷えた楽器から演奏を誘われるような思いを、主体は感じているのではないか。

現代短歌社 2021年9月 2750円(税込み)

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