見出し画像

『誰がネロとパトラッシュを殺すのか』─日本人が知らないフランダースの犬 アン・ヴァン・ディーンデレン ディディエ・ヴォルカールト編著 塩崎香織訳(岩波書店)

 日本では児童文学のテッパン『フランダースの犬』の原作者はイギリス人で、同書はフランダースでは全く知られていない。日本のアニメをきっかけに現地でも少し紹介されたが、地元の評判は概ね否定的。そんな文化的受容の違いについて解き明かした本。

 アメリカで5回映画化されたが、全てアメリカン・ドリームのハッピー・エンドに変えられたというのも驚きつつ、さもありなんだ。

〈(アニメ番組のスポンサーである)当時のカルピス社の社長は熱心なキリスト教信者で、シリーズを単なる娯楽ではなく、キリスト教とそれがよって立つ価値観を日本の若い世代に広める絶好の機会だと考えたのだった。〉
 これはとても思い当たる。キリスト教っぽい話だなーと、特に「ハイジ」を見ていて思ったものだ。しかしそれは日本人に、物語の中の意匠の一つとして、とらえられてしまったのだなあ。

〈フランダースがオランダのように見えるというのは、大勢のフランダース人にとって我慢ならないことだ。〉ベルギーはフランダース地方とワロン地方に分かれている。オランダに近い方がフランダース。日本人にはベルギーとオランダが曖昧な人もいるだろう。そんな人でも「蝶々夫人」は違和感無く見られないはずだ。これ、日本が舞台っておかしくない?これ、中国だよね?と思うはずだ。

〈ネロとパトラッシュは悲惨な失敗者、とりわけ不憫なヒーローなのだ。〉これがフランダース人の反応。

〈このアニメで描かれるフランダースは、フランダース地方には存在しない。日本人の訪問者の頭の中にあるだけだ。フランダース人はそれゆえに、この日本人が抱くイメージを認めることができない。/さらに、「われわれ」フランダース人としては、何百万人もの日本人がひとつの物語の思い出のためにアントワープの大聖堂を訪れ、その場にいることに感きわまるなど考えられない。フランダース人はこの種の感傷的な行為を小ばかにさえするし、それがまた日本人の驚きにつながる。〉小ばかに…。この彼我の違いよ…。

〈このフランダースの犬をめぐる物語は産業化を経る前の貧しい時代が舞台となっている。フランダースとしては思い出したくない過去だ。さらに、フランダース人の目からみると、これは貧しく、何よりも人生に失敗する少年の物語であり、自分たちが打ち出したいイメージとは違う。フランダースがエネルギッシュで経済的にも豊かな地域としてその地位を固めようとしているいま、惨めな物語などごめんだ。〉しかもイギリス人の書いた短編小説で地元では全く無名だったわけだし。

 引用がかぶっているが、表紙に載っている以外にも複数の著者がいる。パトリック・ヴァンレーネ、マリサ・デモーア、アンネ・マリー・ヴァン・ブルック、イルセ・デ・フロイター。次の引用は解説の野坂悦子のもの。

〈ひと昔前の、童心主義が強かった時代の童話には、悲しい結末のものが多かった。自己犠牲が尊ばれ、善悪より「美」を大切にしてきた日本人は、主人公の死や孤独な旅立ちで終わる作品を「変だ」とは思わず、自然なものとして受け止めてきた。〉ここはちょっとじっくり考えたいところ。
 
 本文中にも、日本のアニメにおいて、不当な扱いを受けても、事を荒立てるより、自分ががまんすることを選ぶネロが、ヨーロッパの少年と違う、と記述されている。ヨーロッパでは、濡れ衣を着せられて反論しなければ、その罪を認めたことになる。あのアニメで、ネロはほとんど日本的な振る舞いをするのだ。本書には日本のテレビアニメの全話のあらすじが載っており、それを読んで涙が止まらない私も、実に日本的な心情を形成しているのだとよく分かった。

〈犬と少年をひとつの墓に入れたウィーダが、神の姿に似せて作られた人間は総ての生き物の上にある、と考える伝統的なキリスト教の価値観からいかにかけはなれていたか、日本人はあまり気がついていない。ウィーダがそこに込めた、社会への強い抗議も。〉これは確かに言われないと気づかない。日本的アニミズムの中では自然なことに見えてしまいがちだ。

 ベストセラー作家であり、オスカー・ワイルドに成功の秘訣を尋ねられたこともあるウィーダの、人生の悲惨な末路も興味深かった。

岩波書店 2015.12.    2600円+税



この記事が参加している募集