若い世代の代弁者?(後半)【再録・青磁社週刊時評第四十五回2009.5.11.】

若い世代の代弁者?(後半)    川本千栄

 まず最も問題なのは、なぜ二十代三十代の彼らが、座談会で稲葉京子の歌について議論しているのか、という観点が完全に抜け落ちてしまっていることだ。そもそもこの歌は、この座談会の構成者であり、同じ若手歌人である石川美南が、自分にとって「リアル」だと感じる短歌、として挙げている歌なのだ。
 次に穂村の時評における書き方では、稲葉京子の歌に批判的な若手歌人は「彼ら」と複数なのだが、穂村の引用した部分だけ読んでも「オカルト性」「通俗的」という見解を述べているのは五島一人である。しかもその五島も引用部分より後の発言で、座談会の中で挙げられていた山中智恵子の歌と稲葉京子の歌に触れ、
 
 これ(山中智恵子の歌)は私にとってもリアルなんですが、稲葉さんの歌は、その微妙なオカルト性が、非常に通俗的な感じがするんです。もうこの感覚はポップスだろう、と。笹公人さんがやろうとしていることと近いように見える。

 と述べている。山中智恵子の歌はリアル、つまり、五島自身もある年代以上の歌人の歌全てを「リアルではない」と思っているわけではないことが分かる。また五島稲葉の歌を良いとは言っていないが、それは五島にとって彼女の歌が「耐用期限切れ」だから、ではない。稲葉の歌に対して、「ポップスだろう」「笹公人のやろうとしていることに近い」からリアルに感じられない、と言っているのだ。(若手の)のやろうとしていることに近いからリアルに感じられないというのは、穂村弘が朝日新聞で匂わせたこととむしろ逆ではないのか?
 若い世代が、互いの挙げた歌の「リアル」さについて議論している座談会の一部を切り取って、穂村弘は今回の朝日新聞の時評を書いた。穂村にとってある種の歌が表現スタイルの「耐用期限切れ」だと思えるのなら、彼自身の意見としてそう書けばいいことだろう。なぜわざわざ若い歌人の言葉を言質として使用するのか。しかもその引用は元の文脈から切り離され、巧みに曲げて使われているように私には思えてならないのだ。

(了 第四十五回2009年5月11日分)

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