若い世代の代弁者?(前半)【再録・青磁社週刊時評第四十五回2009.5.11.】

若い世代の代弁者?(前半)    川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

 2009年3月30日付の朝日新聞の短歌時評「本物そっくりがリアルか?」(穂村弘)について書かれた文章を、今日までの時点で三つ読んだ。この青磁社HPの吉川宏志の3月30日付のブログ記事「稲葉京子さんの歌について」、「短歌新聞」4月号の社説「反抗というリバイバル」、「短歌現代」5月号の匿名批評「卑しい手」である。穂村の文章は元々短歌同人誌「pool」6号の座談会を題材にしている。この座談会は昨年の12月22日付のこの週刊時評で私自身も取り上げた、かなり興味深いものである。面白いと思う点もあるし、疑問に思う点もあったのだが、穂村の文章は、私が受けた印象とかなりかけ離れていたので気になっていた。まず、その「朝日新聞」の時評を引く。
 
(以下引用)
 現在問題になっている短歌のリアルもまた、現実からの距離自体がその本質ではないことに改めて気づかされる。それは短歌というジャンル内で長年流通してきた表現スタイルの、耐用期限についての問題なのだ。(中略)「pool」6号の座談会で語られた「いとしめば人形作りが魂を入れざりし春のひなを買ひ来ぬ」(稲葉京子)についてのくだりを想起する。
 「稲葉さんの歌は、歌のリアルの歌なんですよ。それに対してリアルじゃないと感じる人が今増えている気はしますよね。」(内山晶太
 「その微妙なオカルト性が、非常に通俗的な感じがするんです。もうこの感覚はポップスだろう、と」(五島諭
 従来は短歌的な「味」と受け取られていたものが「オカルト性」「通俗的」と呼ばれていることに驚く。だが、二十代の彼らはこの「味」を理解した上で、現在における有効性を問題にしているのだ。
(以上引用
 
 「短歌新聞」社説と「短歌現代」匿名批評は論調が似通っており、「短歌新聞」社説は「穂村は、その彼ら(内山・五島)の発言をいわば“利用”して、稲葉京子の歌人としての立場を不当におとしめている」と書き、「短歌現代」匿名批評は「穂村は、知ってか知らずか、稲葉京子というベテランの作家に対して、ついでのように耐用期限切れを宣告するのである」と書く。また、吉川は「稲葉京子さんの歌について」の中で、稲葉京子の歌はしみじみとしたいい歌だ、と述べ、彼女の歌についてのマイナスイメージが広がってしまっては残念だ、として彼自身が以前に書いた歌評を再録している。
私が考えるに、この議論の問題点の一つは「短歌現代」「短歌新聞」共に指摘しているように、穂村弘が若い歌人の発言を自分の論の言質のように扱ったことだろう。ただ、問題はそれだけではない。「朝日新聞」の短歌時評を読んだ人で「pool」の元の座談会を読んだ人はごく限られるであろう。「短歌現代」「短歌新聞」の書き手も元の座談会を読んでいないと思われる。「短歌現代」の論は、穂村の引いた発言のみを元に若い歌人たちをも批判し、「短歌新聞」の論では、若い歌人たちが稲葉京子の歌を悪く言ったことは仕方の無い前提としているが、実はその前提自体がかなり違うのだ。元の座談会に立ち戻って穂村の文章を検証してみたい。

(続く)
↓(参考までに私がこの座談会について考察した時評です。)

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