Twitter事始①『現代短歌』2019年7月号に寄せて

『現代短歌』2019年7月号に「現代短歌を評論する会」という特集記事が載っていた。外塚喬『実録・現代短歌史 現代短歌を評論する会』という本についての特集だ。関係者の思い出エッセイと、この本について2019年5月12日に行われたパネル・ディスカッションの載録が中心となっている。そのパネル・ディスカッションのパネリストの一人である三上春海の発言を読んで驚いた。

三上「これまで語られてこなかった歴史に切り込んだ資料としてとても興味深く読みました。一方で、本全体にある種の退屈さ、というと語弊がありますが、閉塞感のようなものを、読みながら感じたことも事実です。」

退屈!・・・言っていいんだ、そういう率直な感想。目からウロコが落ちた感があった。その後、三上は退屈の意味していることを詳しく説明し、また、この本の根本的態度の矛盾(「短歌界と迎合することなく、と言っている一方で、短歌界に無視されたとも言っている。(…)あくまで相手にはしてほしい(…)」を突くなど、鋭い意見を述べた。筆者や関係者たちが自分たちの活動をとても肯定的に捉えているのと対照的だった。

若い世代すごいな、というのが私の受けた強い印象だった。

実は、私自身もこの本を読んでいた。そしてとても否定的な感想を持っていた。まず、会の創設・継続について書かれていることがとても分かり難い。(これは一年後の『現代短歌』2020年7月号に外塚喬の「「現代短歌を評論する会」顛末記」という記事が載り、ようやく、そういう事かと合点がいった。)

さらに何度も「厳しい批評」という言葉が出て来るのだが、厳しいというより些末な点をあげつらって罵っているように思えたのだ。例えば、河野裕子の歌に対して「もう、歌も末だね、こんな作品を見せつけられると、これが現代歌人協会賞、ミセス女流文学賞をいただいた河野裕子の作品か。中学生だってもっと上手に作る。」という調子だ。

それは厳しい批評とはちょっと違うのでは、という感を持ちつつ、一冊を読み終えた。パネル・ディスカッションも見に行こうかどうしようか迷ったのだが、否定的な感想を持って行っても・・・と思ってやめたのだった。だからいっそう、三上の発言を読んだ時、強い印象を受けたのだろう。

その頃も、現在も(2020年8月)、短歌総合誌5誌、短歌系新聞2紙を定期購読している。5誌2紙を一か月で読むのは実は大変だ。すぐ積ン読化してしまう。読み切るのはかなりな気合いが必要だ。しかも、がんばって読むと必ず何か言いたくなる。これ、いいね、これ、おかしいよね、と思っても語る相手はほぼいない。

総合誌を読んでいいと思ったこと、おかしいと思ったこと、率直に語りたい。そう強く思った私は、Twitterをやってみようかなと思ったのだった。2019年8月、今からほぼ1年前のことだった。