2008年・「リアル」と「近代」(前半)【再録・青磁社週刊時評第二十八回2008.12.22.】

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

2008年・「リアル」と「近代」(前半)      川本千栄

 私の担当する2008年最後の時評である。今年この週刊時評を書きながら何度も立ち止まった言葉は「リアル」と「近代」であった。短歌だけでなく、今年色々な芸術分野で、リアルという言葉が目についた。例えば12月13日付けの朝日新聞文化欄の「美術 回顧2008」という記事では、副題の一つが〈「リアルさ」再考する機運〉となっている。少し記事を引用してみると〈「何がリアルか」が見えにくくなるなか、…リアルさや現実感を再考するような試みが多かったのは、ある意味当然といえた。〉〈…江戸末期から明治期、西洋のリアルな絵画や写真に出あった私たちの先達は、どう対応したのか。〉〈…リアリティー、現実感は、ただそっくりでは現れてこない。〇〇の個展が得難い体験を与えたのも、彼女たちが、社会と自身の内面を掘り下げて「実感」を表現していたからだろう。〉
 このように、何がリアルかが見え難い、という印象を持ちつつ、近代の黎明期にまで遡って現実感はどう表現されてきたかを考える、という論の筋道は短歌のそれと全く重なる。美術界でも「リアル」は大きな問題意識の核となっているようだ。
 一方、小説の分野ではケータイ小説が、大ブームになった2007年を経て、今年2008年、ケータイ小説を論じた評論が出版された。そこでもリアルは大きな論点になっている。『ケータイ小説は文学か』石原千秋著 ちくまプリマー新書 2008)によると、ケータイ小説は「実話」を基にしているという形式を採り、「実話」であることを作者が後書きで示すのが一つの定番だそうである。そうした後書きをいくつか紹介し、「リアル」を「現実・本物」、「リアリティー」を「現実らしさ・本物らしさ」と定義づけた上で、石原はこう述べる。〈「ケータイ小説にはリアリティーがない」という批判は肩すかしを食うことになる。そこにあるのは、「リアル」だけなのだから。…「リアリティー」を感じさせる工夫のすべてを「リアル」に負っているからである。〉
 「「実話を基にした」というスタイル」を採り、それを後書きで示唆する手法は『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』穂村弘が取ったものとよく似ている。このようにリアルに関する考察は、小説の分野だからといって、短歌に携わるものが他人事として流すことはできない。
  短歌の分野においても、最近相次いで発行されている若手の同人誌で、「リアル」という言葉が問題になっている。特に注目したのは『pool』vol.6の座談会「もう少し、歌のリアルを考えてみる」と『新彗星』No.2の評論「風景の喪失/他者の変質」柳澤美晴)である。

(続く)

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