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堀田善衞『方丈記私記』(ちくま文庫)

 鴨長明の高名な『方丈記』を読み解く長編エッセイ。『私記』と名付けるだけに、太平洋戦争時の著者の体験が重ねられて、日本文化の底に流れる意識に肉薄している。元は1971年に筑摩書房から出版されたものを1980年に文庫化したもの。文庫の装丁は安野光雅。

〈これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。〉東京大空襲の翌日、焼け跡を歩いていた著者は昭和天皇の視察に遭遇する。全くの焼け跡にピカピカの自動車とピカピカの長靴で現れた天皇の姿を見たことも衝撃だが、焼け跡を掘り返したりしていた被災者が天皇に「謝罪」したことも衝撃だった。著者が考えていた戦後の新しい世界は実現しそうにもないことに思い当たったのである。

「……すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経しのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」
〈私には「月日かさなり、年経にしのちは」、けろりと忘れてしまう人間というもののしたたかさ加減についての認識が裏打ちとしてあるように思われて来る。実際に、人間はけろりと忘れてしまわぬ限りは生きて行けないのである。心の濁りはうすらぐ筈もないが、記憶はうすらぎ、それを心の惢となるほどの経験と化しうる人は多くないであろう。〉この場合の心の濁りは世俗についての欲念、執着などを指す。それが薄らぐように見えても、喉元過ぎれば結局戻って来るということだろう。

〈千載和歌集や新古今などの美は、実はこの(朝廷一家の)エゴイズムに寄りかかったものであった、というのが歌集の背後の政治的実情である。〉

〈定家や後鳥羽院などの一統、朝廷一家が、悲惨きわまりない時代の現実はもとより、おのもおのもの「個性」あるいは「私」というものを捨象してしまった、いわば「芸」の世界、芸の共同体を組織し、その美学を高度に抽象化すると同時に、反面でのマナリズム、類型化をもたらすべくつとめていたとき、長明は「私」に帰った。すなわち方丈記に見る散文の世界がひらけて出て来るのである。長明は、この「私」において、散文において、若き日以来の政治への関心、変転して行く時世についての歴史感覚の、この二つのものがアマルガムする様相を、方丈記そのものを書きながら自ら目撃したものと、私は読みながら感じるものである。そうして世の人々は、この「私」を無常感と呼ぶ。〉

〈しかし、これらのことは、彼においても晩年に到達した境地であって、青、壮年の時は、彼もまた朝廷一家の「芸」の共同体に準じよう、そのなかにもぐり込もうとしてずいぶんな努力をしているのである。〉

〈実はしかし、この恋の歌ほどにも観念化されたものはなかったのである。従って、当時にあってはもっとも直接的なものである恋愛歌から、その直接性を捨象してしまう、抽象世界のものと化することこそが歌人としての「左右なき手だれ」、資格であり技術なのであった。長明には、どうにもそれがうまく行かない。芸の共同体からは、ともすれば、はずれてしまうのである。〉

〈千載和歌集などから以後の、とりわけて新古今集などになると、歌集の全体としては、よくもまああの動乱(…)などのことを越えて、あるいはまったく無視し得て、よくもあれだけのことをなしえたものだとつくづくと、ほとんど呆れるほどの心持でもって感銘をするのであるが、しかし、その歌の一つ一つについて仔細に考えて行くという作業を始めると、これはもう途端に、と言いたいくらいに、ほんの短時間で飽きてしまうのである。凝りに凝ったことばの技巧のほどなども、所詮は技巧であってそれ以上のものではない、という気がして来てしまう。歌集の全体は、たしかに何物にもかえがたい最高の詩であるとは思うのだが。〉

〈新古今集などでは、たとえば西行などは俗語(つまりはその当時としての現代語)をどしどし駆使している点で特定出来るような気がし、少し後のこととしては実朝の歌などは、彼自身の短い生涯の、つねならず充実した悲痛さとも関連して、職業歌人とちがう風格のことや、またことばの使い方が、京都の連中よりはつねに時間的に一サイクル遅れていることの面白さなどで特定出来るような心持がする。〉

〈「中古の躰は、学びやすくして、然(しか)も秀歌は難(かた)かるべし。……今の躰は習ひ難(がた)くして、能(よく)心得つれば、詠みやすし。」と言い切っているのである。幽玄体は習うのはむずかしいんですが、一通りの心得さえあれば、実は詠みやすいんですよ、などと言ったら、定家や寂蓮などは顔を真っ赤にして怒ったであろう。職業上の秘密を、こうもぬけぬけと言い抜かれたのではたまったものではない。今の躰の方が本当のことを言えばチャチなんだよ、ユーゲンなんぞと言ってはいますがね……。〉

〈彼らが詠むところの歌は、すべてもろもろの歌集や草子、巻物による、つまりは文学による文学なのである。現実世界にはなんのかかわりも関係もありはしない。時代の惨憺たる現実などは、いや、それを遮断するための詩なのであり、従って時代の言語もまた彼らの文学には何の関係もなく、定家にいたっては三百年以前のことばを使えというところまで行く。人工言語による人工歌である。〉

〈京の死者の屍臭は、御所のなかにも当然達していた筈である。しかし、如何なる意味においても、現実は芸術に反映することがなかった。長明のように生者の眼によって現実が直視されることがなかった。何故か?現実を拒否し、伝統を憧憬することのみが芸術だったからである。(…)世界の文学史上、おそらく唯一無二の美的世界である。異様無類の「夢の浮橋」である。〉

〈いわゆる古詞新情といわれる(定家の)歌論である。寛平前後といわれるのは、古今集の前期、六歌仙の頃だそうで、とにかく三百年ほど昔のことばを使って歌をつくれ、というのである。現代の日本語ではダメだ、というわけである。現代の日本語を拒否して、どうして現実をうたえるわけがあろうか。そうして、「ふるきをこひねがふにとりて、」古い詞(ことば)を望むので、昔の歌の詞を改めず、それを土台に詠むのが本歌であるとする。つまりは本歌取りの理論である。〉

〈定家のもう一つの歌論書である詠哥之大概には同じことが(…)同じことを言っているのであるが、ここには二つの拒否がある。まずは現代日本語の拒否であり、第二には、現実を歌うことの拒否である。本歌取りとは、歌によって歌をつくることであり、すなわち芸術によって芸術をつくれ、現実を詠じてはならぬ、ということである。いわばみやびの強制である。(…)
 芸術至上主義というのは、現実の拒否を意味するものでははない。それは、結果として現実拒否をもたらすことがあるかもしれないけれども、現実を芸術の土台とすることに変りはないのである。そうしてこの場合の現実には、それぞれの時代に於ての現代のことばというものも入っているのである。
 しかし定家の場合は、生きた現実のことばを拒否し、歌によって歌をうたえという二重の拒否がある。これは世界の芸術史のなかでも、また一つの文化論としても、まことに極端なものであろう。〉

〈この本歌取り文化というものは、連綿としてわれわれの文化と思想の歴史のなかに生きつづけた。創造よりも伝承を、「されば歌を心うる事は、よむよりは大事なり。」俳諧、連歌、茶、能、花道ーすなわち「心うることは、よむより大事なり」でもって、それは、歌、歌道、茶道、花道から、剣道、柔道ということにまでなってしまた。すなわち、いわば自衛本能にもとづく閉鎖文化集団になって行く。茶の宗匠、花の師匠などというものが尊ばれるのは、その人が古歌、本歌を知っていて、その人がそこへかえる、本歌取りの真打ちである、という権威主義にもとづく。本歌取り思想、文化に必然的にともなって来る閉鎖的な権威主義は、批評をも拒否するものである。批評を拒否するものは新たなる創造を拒否するものである。〉

 著者はこの本歌取りの思想が太平洋戦争時の日本の過剰な伝統重視、依存に繋がったのではないかと考察するのである。愚かとも言える戦時の思想がここまで長く続いた根深いものだと思うと暗澹とする。もちろん神風は吹かなかったのだ。

ちくま文庫 1988.9. 定価460円
(筑摩書房 1971.7. を元とする。)


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