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角川『短歌』2021年11月号

かたつむりの歯の一万本ぞわぞわとレタス食む夜や石舐る夜や 馬場あき子 検索してみた。かたつむりの歯はヤスリ状で食べ物を削り取って食べているそう。柔らかいレタスでも硬い石でも。一万本とも二万本とも言われる歯で。書いてるだけで気持ち悪くてぞわぞわしてくる。

その着物覚えておれど顔ははやおぼろとなりぬ 手をつなぎいし 三井修 オーボエの演奏を聴くことによって夭折した母を思い出す一連。とてもしっとりした美しい連作。手を繋いでいた母の着物は覚えているのに、顔はもう記憶が曖昧だという。母が死んだ時作者は幼かったのだ。

してはいけなかつたことのいくつかを珈琲ミルクは溶かしてくれる 小黒世茂 初句二句の句跨りが効果的。二句が「なかつた」で始まるのがいい。多分主体にとってのみ「いけなかった」小さなこと。珈琲ミルクの甘くて苦い味が、それでいいよ、という心の声を聞かせてくれるのだ。

「さよならを言うのは少し死ぬことだ」晩夏にフィリップ・マーロウを読む 藤島秀憲 マーロウの台詞のカッコ良さにしびれる。原文の英語も知りたい。晩夏は少し死の気配のある季節。何も根拠は無いが、読んでいるのは、日が傾きかけた時間帯のように思った。

糸を紡ぐように砂は落ち砂時計の底にうまれる円錐形は 鍋島恵子 六八六七七と取った。砂時計の砂の途切れない線が、紡がれる糸のように見える。そしてその砂は底に円錐形を描くように落ちていく。みんな知ってる砂時計の下部の円錐形。でも歌に詠まれたのを見たのは初めてだ。

つっかけのサンダル履いて出るようにきみの機体は飛び立ちゆけり 工藤貴響 親しい君がフランスを去った場面。飛行機で去る、重々しいはずの場面が「つっかけサンダル」というカジュアルな別れとして描かれる。つっかけの丸っこい頭はジャンボジェットの頭の丸さと似ている。

和仏辞典の裁ちきる論理を肯(がえん)ずるたとえば「半端」は「無用」と出でて 工藤貴響 言語と言語の隙間で零れ落ちてしまうものを具現化して見せた一首。主体はその差異を肯定する。日本語の微妙なニュアンスは断ち切られてしまう。それが多言語を使うという現実なのだ。

玄関のドアを閉じゆく細さへと手の振り幅を徐々に狭めて 塚原康介 ドアを閉じながら別れを惜しむ場面。ドアを閉じながら少しずつ手の振り幅を狭めていく。非常に視覚的に、動的に場面が切り取られている。高い写実の技術を感じた。

手は傘を巻くときに初めて濡れる護られてばかりの日々だった 塚原康介 雨に降られていても、傘の内側にいる限り手は濡れない。屋内に入って傘をたたむ時、初めて手が傘の外側に触れて濡れる。その時傘に護られていたことに気づく。具体物から認識を導き出す歌。抒情性も高い。

君の名を呼ぶとき僕の喉元は冬のひかりのあかるさを持つ 小島涼我 素直で向日性の高い恋の歌。喉元を意識しながら「君」の名前を呼ぶ。「ひかり」「あかるさ」とひらがな遣いがこの歌の雰囲気に合っている。季節が冬なのも、空気に透明感が感じられていいと思った。

「でも幸せでしょう」って声を逃がすため冬の窓いくつも開けたけど 魚谷真梨子 色々細かい不満はあるけど、でも幸せでしょう?相手が自分の幸せ度を決めつけてくる。人の幸不幸などどうやって分かるのだろう。息苦しくて窓を開けていく主体。「けど」決めつけは身を去らない。

 50首の応募作を会話で、しかも「でも」で始めている。かなり攻めていると思う。屈託に満ちた一連の最初の一首としてキマッている。

許すための、あるいは許されるための、手首で溶いてゆく生卵 魚谷真梨子 卵を溶くために箸か泡立て器を回す。指先ではなく手首から力を伝えて。白身と黄身が混じっていくことが許す、許されるに繋がる。何を許し、許されるためなのか。あるいは結局許しも許されもしないのか。

傷口のように川面はきらめいてわたしを均してゆくのはわたしだ 魚谷真梨子 川波のきらめきを傷口と捉える。上句の比喩が美し過ぎて読む者の気持ちが昂る。誰も自分の気持ちを静めてはくれない。自分で自分の気持ちを均すのだ。生きていくために。毎日の生活を続けるために。

世界からわたしが剥がれてゆくときの音だった、春雷、瑞々しく 魚谷真梨子 春雷の音が瑞々しいというのはよく分かる。冬が終わり春が来ることの心躍りが重なる。それを上句のように喩えて、孤独感を表現する。粘性の低い、どこかきっぱりした孤独感と思った。

春だから春を許したりはしない目の奥にいつまでもはなびら 魚谷真梨子 「だからこそ」なのか「だからって」なのか、「だから」の読みが分かれる。私は後者と取った。残像のように散る花びらは許さない気持ちの表れだろうか。複雑で微妙な心理を描いている歌と思う。

⑮「選考座談会」今年は該当作なしだった。とても残念に思う。作品を読むと、最後に残った3作「大いなる鞭」「透明な手に招かれて」「対岸」はどれが受賞してもおかしくない修辞力の高さとテーマ性があったと思う。

⑯「選考座談会」俵万智〈作中主体イコール作者である必要は全然ないんですが、作中主体が結ぶ像が曖昧だと、歌に説得力がなくなるといいますか。〉座談会でいいなと思った発言。さらに言えば、イコールでなくてもいいが、ニアリーイコールだと「思わせて欲しい」、それが短歌。

⑰道浦母都子「挽歌の華」これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹 吉野秀雄 挽歌を読んでいく連載が始まった。吉野秀雄の歌を久しぶりに総合誌で見てうれしい。教科書に吉野の歌が載ってなかったら私は今頃短歌やってないと思う。

児童期の「進め一億火の玉」が老いて「一億総活躍」と 島田暉 結びつけて考えたことは無かったが、そう言えば発想は同じ。時代が変わっても、国民性が何も変わってないことをスローガンが教えてくれる。今、人口も戦時下と同じくらいなわけですね。

⑲小島なお「時評」〈また斎藤茂吉の〈沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨降り注ぐ〉では、シベリア抑留中に亡くなった次男への黒々とした悲嘆には、〉斎藤茂吉の次男は北杜夫。出征も戦死もしていない。元になった『歌壇』10月号の渡英子の論を見ると、次に窪田空穂の〈親といへば我ひとりなり茂二郎生きをるわれを悲しませ居よ〉が挙げられて、その評が茂吉の歌の評に続いて書かれているので、混同したのかも知れない。戦前、空穂は腕白な子供として茂二郎を歌に詠んでおり、比べて読むと悲しい。

2021.12.27.~29.Twitterより編集再掲