見出し画像

『塔』2020年9月号(1)

鉛筆を走らせながらあの夏も風の図面を引いていたっけ 朝野陽々 風の図面という言葉にとても惹かれた。そしてこの季節はやはり夏でないと。一連、考古学の発掘調査の現場だろう。素材もいいと思った。

廊下にてすれちがふまで三歩ほどとほき記憶のあなたであつた 千村久仁子 「あなた」は一連から作者の子供のようだ。おそらく成人の。家の廊下を歩く、三歩ほどの間、子供のことを忘れていた。すれ違ってはっと思い出したのだ。「とほき記憶」に、却って関係性が濃い印象を受けた。

『春と修羅』とじてねむろう硝子戸にミルクのような朝がきている 数又みはる 宮沢賢治の詩集は難解だと思うのだが、作者は夜を徹して読んだようだ。「硝子戸」という漢字遣いと「ミルクのような朝」が良く合っている。まだ薄暗く靄のかかったような朝のイメージ。

 表題作「春と修羅」の中の「おれはひとりの修羅なのだ」というリフレインは好きなのだが、詩として全く読めた気がしない。しないのだが、この詩は好きなのだな。他の詩はもっと難解。無人島に持って行ってゆっくり読みたいタイプの詩集だ。

くちづけであなたがくれるさみしさはレモンタルトの上のメレンゲ 中森舞 恋愛の楽しさと寂しさを、タルトの甘さと酸っぱさに喩えて、バランス良く歌にしている。黄色いレモンタルトの上の白いメレンゲも視覚的に美しい。ギリシャ神話を下敷きにした、象徴的な一連。

くちなしを腐らす雨のどしゃ降りのさなかに会えばいつものあなた 仲町六絵 卯の花ではなく、くちなしというところが意味深。上句が序詞のようだ。雨の日に会ってもあなたはいつも通りという意味だが、意味の少なさに比べ、詞の華やかさが大きくて和歌的。古い感じはせず、おしゃれ。

六月のかなしくはない空の下深呼吸するかなしくはない 川俣水雪 「かなしくはない」の2回の繰り返しが、かなしいのだなと思わせるが、あまり湿った感じはしない。深呼吸しながら自分に言い聞かせているのだ。短歌の韻律が生きた歌。

恋の歌ひとつぐらいは残せぬかフラワームーンに猫は塀の上(え)小澤京子 ある程度の年齢になってから短歌を始めると、自分の作った歌に相聞が無い、ということになってしまう。それは何となく寂しいもの。でも、大丈夫。下句の場面を、こんなにロマンティックに切り取れるんだから。

2020.9.21.~23.Twitter より編集再掲