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生き残るマンモスー就職氷河期、リーマン、コロナー5. 世界は一夜で堕ちるーリーマンショック
正社員、昇進。30代前半は自分的バブル
と言っていいのかわからないのほど、おそらく小規模なプチバブルなのだろうけれど、その時点では最も多くのお金が入ってきたことは事実だ。
別に隠すことでもないので公表すると、当時の年収は700〜800万の間。
31,2の女にしては頑張った方だろうとおもう。
スイス銀行のITに派遣でお世話になった会社に正社員として転職でき、さらにここが非常に多国籍な企業だったおかげでのびのびとお仕事をさせていただいた。出会った人々もなかなかに個性的な人ばかりで、一見するとおとなしそうな人、もかなり面白いユニークとしか言えない職場だった。
なんとなく法人営業+技術職の調整役的なポジションは、性に合っていたのだと思う。ペラペラよく喋るのは生来のものなので合ってたし、職人的なエンジニアやプログラマーとのやりとりはオタク魂に火をつけるに十分だった。
当時まだクラウドが今ほど当たり前に運用されておらず、仮想サーバーなどの考えもまだまだ一般的ではなかった。大企業は物理的にサーバーを保有したがったし、理論上では仮想で組めばより分厚いリスクヘッジも可能だし、トラブルシューティングも容易になる。物理サーバーだけでは、何かあったときにエンジニアがサーバールームかどっかのデータセンターに実際に行かねばならず、それが深夜だったりすれば電車はないしタクシーだしということで人件費も諸経費もすごくなる。
けれど当時はまだまだ「物理的にないものは信用ならん」という風向きが強くて、何かあれば当然ながら電話で叩き起こされ、起こされた私がエンジニアを叩き起こし現場へ急行させ、(それが単純に物理的に再起動するだけで解消される問題でも)問題が解消されクライアントに電話を入れてメールを送信するまでが一連の流れだった。
深夜対応は非常に高額になるので、そのおかげの高収入だったと言える。
おかげでこの頃は睡眠不足からの不眠症になったりしたが、大抵の欲しいものはあまり予算を気にすることなく買う生活をしていた。
私はあまりブランド物に執着がないので、エルメスだヴィトンだというものは所有したこともないのだけれど、ふらっと通りかかった店の素敵なものを買うことになんの遠慮も躊躇もなかったわけで、ある意味で幸せではあったと思う。
実際に効果があったのかどうかは別として、ねこたちのご飯やサプリも結構なお値段のものだったし、好きなインテリアにまとめた駅近の新築マンションに賃貸で住みながら新幹線通勤をする時期すらあった。ベトナム、パリにもロンドンに旅行したのは全部この頃だ。手取りが50万と少しあったので、たとえ今月がピンチになったとしてもすぐに解消する安心感は、ものすごく快適で、あまり考えせずに気に入ったバーをハシゴしたり好きに生きていた。
だが、のほほんとした日々はあるニュースで終わりの始まりを迎える。
リーマンブラザーズ、地獄の蓋をあける
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