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[中編] 丘の上の魔女とファントム・ドレイン | 上(1/3)

 少年は迷子になっていた。

 どこで家族とはぐれたのか思い出せない。
 ただ気が付いたら見知らぬ森の中にいた。

 濃い霧が立ち込めていて、昼間ではあるようだが薄暗く、時間帯がわからない。

 どうしてここにいるのか、さっぱり何も思い出せない。

 これはただの迷子ではないかもしれない…。
 頭を打って何かがおかしくなってしまったりしたのだろうか?
 事件に巻き込まれて変な薬を飲まされたとか?

 パニックを起こし、少年は闇雲に走った。
 どこをどう走ったのかわからないが、足を滑らせて数メートル滑落してしまった。

 目の前には小川が流れている。
 体中擦り傷だらけで、泥だらけになってしまった。

 起き上がろうとして足首の痛みに気が付く。

 骨は折れていないようだが、ひどく挫いてしまったようだ。
 これでは歩くのは難しそうだ。

 少年はしくしくと泣き始めた。
 そうして、しばらくうずくまって泣いていると、真上から声がした。

「人間の子どもか? どうしたんだ? はぐれたのか?」

 顔をあげると、目の前に見たこともない大きな爬虫類の顔があった。
 少年は悲鳴をあげて後ずさった。

「驚かしてすまない。ルルフ、ちょっと離れなさい。」

 声のする方を見ると、馬のように見える大きな爬虫類の横に、フードを目深にかぶった人物が立っていた。
 姿はよく見えなかったのが、声と体格から少年は相手が若い女の人だと判断した。

「立てるか?」

 相手の問いかけに、少年は首振って足首をさすって見せた。

「ケガをしているのか?」

 少年は頷いて答えた。

 するとフードの人物が少年の前にかがみこむなり、足首の辺りに手をかざして何かを唱え始めた。
 その声を聞いていると、不思議と痛みがすーっと消えていくような感じがした。

「これで立てるか?」

 足首を触ってみると、先ほどまでの鈍い痛みはなくなっていた。
 少年は頷き、ゆっくりと立ち上がった。足は何ともないようだった。

「君、名前は?」

 名前を聞かれて、初めて気が付いたが、少年は自分の名前がわからなかった。
 答えの代わりに不安な表情で少年は相手を見返した。

「君、話はできるの?」

「…あ、うん。」

 あまりに驚いていて、喋ることを忘れていたのだ。少年は自分が言葉を発することができると再確認して、少しばかりかほっとした。

「名前は?」

 相手は先ほどと同じ質問をしてきた。

「わからない…。」

 少年は答えた。

「自分が誰なのかわからないのか? やはり迷い子だな。私と一緒に来るか?」

 相手がフードを少し持ち上げたので顔が見えた。
 思った通り女の人のようだった。

 少年には選択肢はなかった。ここで彼女について行かなかったら生き延びることはできない気がした。
 少年が頷くと、相手も頷き、ひょいっと少年を抱き上げると、大きな爬虫類の背中に乗せた。
 爬虫類の背中には鞍がついていた。
 続いて彼女もひらりと爬虫類の背中に飛び乗った。

「ルルフ、急いで帰るよ。」

 彼女が言うと、大きな爬虫類はドスドスと足音をたてて走り始めた。

「迷い子はどんどん記憶を失ちゃうからね。数日のうちに適切な対応をしないと助からないんだ。私に発見されるとは、君は運がいい。」

 爬虫類の背中に揺られながら彼女が言った。
 少年は急激な眠気に襲われて、気を失うように眠りについた。

・・・

 目を覚ますと、少年はふかふかのベッドに寝かされていた。
 窓から日光が差し込んでいる。
 お香のようなものが炊かれていて、清潔で心地よい部屋だった。

 ベッドから体を起こすと、ちょうど誰かが部屋に入って来た。
 女の人だった。

「気が付いたか。」

 聞き覚えのある声だった。
 森で少年を助けてくれた人だ。

 長い黒髪で緑の目をした、大変に美しい人物だった。

 その人は、少年が寝ているベッドに腰かけると、枕元の棚の上に置かれた水差しからコップに一杯、透き通った緑色の液体を注ぐと少年に渡した。

「気持ちをリラックスさせるお茶だ。飲みなさい。」

 少年は言われるがままに飲んだ。ほろ苦く、それでいてどこか甘い、不思議な味のする飲み物だった。

「私の名前はソフィー。ここは私の家。安全な場所だ。心配いらない。」

「あ、ありがとうございます。助けてもらって…。」

 少年はもう一口お茶を飲んでから言った。
 ソフィーと名乗った女の人は、にっこり微笑んだ。

「さて。君のことを少し説明してあげよう。何もわからないで不安だろうかな。」

 少年は飲みかけのお茶をベッドの横の棚に置くと、少し姿勢を伸ばした。

「君は迷い子だ。迷い子というのは、ヒナゲシの妖精が捕食のためにさらってきた人間の子どもだ。」

 いきなり状況を把握するのに時間のかかりそうな単語が連発して、少年は慌てた。

「妖精? …捕食?」

「“妖精” がわかないか?」

「いえ…。妖精が何かは知っています。でも…妖精って本当にいるんですか?」

「うん。いる。今は迷信だと思っている人も多いけど、いる。」

 ソフィーが断言したので、少年はそうなのだと思うことにした。

「ヒナゲシの妖精は人間の子どもを誘拐すると、自分の縄張りまで連れてきて、獲物に毒を注入するのだ。」

 ソフィーが首をかしげて少年を観察しているような表情をした。

「ヒナゲシの妖精は12~3歳の子供を好むと言われている。君もそのくらいに見えるな。君は自分が何歳かわかるか?」

「…わからない。」

「…そうか忘れちゃったか。ヒナゲシの妖精の毒は注入されてから48~120時間で子どもの記憶をじわじわと消していき、記憶が完全に消されると、その子どもは “家なき子” という化け物に変化する。“家なき子” になってしまうと、我々でも元に戻すことはできない。ヒナゲシの妖精にとって “家なき子” はめったにありつけないご馳走なんだ。」

 彼女が少年の首を指さしたので、少年はそこに触ってみた。蚊に刺されたような跡があった。

「君はそこから毒を入れられた。毒が入っても、家なき子になる前であれば我々が作った薬が効く。薬が効けば、失われてしまった記憶は戻らないが、進行を止めることができる。君をこの家に運んですぐに処置したから、君はもう大丈夫だ。“家なき子” になることはない。」

 少年は自分が置かれた立場のことを考えてみた。考えてみたが、うまく整理できなかった。
 とにかくこの人、ソフィーに命を救われたことは確かなようだった。

「ヒナゲシの妖精の毒は、大事な記憶から消していく。だから、最初に忘れるのは自分のこと、その次に家族のこと、友達や知り合い、そして住んでいた場所…。君は、自分の身の回りのことで覚えていることは何かあるか?」

 少年は一生懸命に頭の中を探って、自分に関する記憶を探した。
 だが、何もわからなかった。

「気が付いたら、あの森にいた。それ以外は思い出せない…。」

 少年はいまにも泣きそうな声で言った。

「じゃあ、これが何だかわかるか?」

 ソフィーの手の中に、小さな木の実がいくつか握られていた。

「どんぐり?」

「そうだ。じゃあ、これは?」

 今度は硬貨。

「お金?」

「うん。この辺はわかるか。そしてたら…これは、読めるか?」

 彼女は立ち上がると、戸棚から一冊の本を取り出してきて少年に渡した。
 開いてみると、絵本のようだった。
 読んだことのない本だったが、文字は読めた。

「うん。読める。」

「これ自体が何だかわかるか?」

「これ? 絵本のこと?」

「そう絵本。この本は読んだことあるか?」

「ないと思う。」

 彼女は「ふむ…」と言って、少年の両手を優しく握った。
 少年は美しい女の人に手を握られて少し照れくさく思った。

「君は、自分に関わる部分の記憶は失ってしまったが、それ以外はおおむね無事のようだ。これから、ここで新しい人間として生きていきなさい。」

 少年は一瞬ためらって手を引こうとした。が、彼女がそれを許さなかった。

「記憶を失っている君には選択肢はない。私が責任を持って君を育てよう。」

 ソフィーの迫力に押されて、少年は抵抗するのを諦めた。どっちにしろ行く当てはないのだ。
 少年が受け入れたことを見て取ると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「では、さっそく君に名をさずけよう。君は……君は、今日から、タツトだ。」

 タツト…。
 全くピンと来なかったが、えり好みしている場合ではなさそうだった。

 名を付けてもらうと、胸の内に拠り所ができたような気がした。

「よし、じゃあ、タツト。家を案内しよう。」

 そう言ってソフィーが立ち上がったので、タツトも慌ててベッドから降りると彼女に続いた。

 ソフィーの家は、とても広そうだったが、この家で暮らしているのは彼女ひとりのようだった。

 先ほどタツトが寝ていた部屋の向かいのドアをソフィーが開けた。

「ここが、今日から君の部屋だ。もともと家政婦かなんかが住んでいたらしいが、君にはちょうどよいだろう。」

 小さい部屋だったが、少年ひとりには申し分ない広さだった。窓から充分な日光が差し込んで、お香のような心地よい香りが漂っていた。

 部屋にはベッドと机と本棚、そしてクローゼットがあった。どれも古そうだったがきれいに掃除がしてあった。
 本棚はからっぽだった。

「しばらく使ってなかったから、少しカビ臭いかもしれないが、昨日一日かけて掃除をして浄化もしておいた。だいぶ心地よくなっているはずだ。」

「昨日一日?」

「ああ、タツトは3日間寝ていたんだよ。」

 3日も…?

 驚いているタツトを気に留める様子もなく、ソフィーは部屋の隅に置いてあるクローゼットを開け、引き出しも全部開けていった。

「ひとまず、何着か君のサイズの服を用意しておいたんだけど、好みじゃなかったら町に出た時にまた買ってあげよう。」

 タツトはクローゼットの中の服を手にとってみた。特にこれといった特徴のない普通の服だった。

「君がいま着ている服も私が用意したものだが、ちょうどいいか?」

 タツトは自分が来ている服を見下ろした。前からこんな服を着ていた気もするし、そうではない気もした。

「問題ありません。ありがとうございます。」

「よかった。あと、君が元々着てた服だけど…泥だらけでね。洗濯したけど、あそこの泥は染め物に使うくらいだから取れなかった。引き出しの一番下に、一応取っておいたよ。」

 タツトは自分の服を見てみた。見たことがない服だった。
 自分の服を忘れてしまったのだ。

「ありがとうございます。でも、これが自分の服だという実感がありません。」

「そうか…。まあ、捨ててもいいし、取っておいてもいだろう。」

 タツトは自分の服だったはずのものをじっと見下ろした。長々と見ていたところで、何の感情も湧いてこなさそうだった。
 ソフィーがそんなタツトの様子に気が付いたのか、そっと彼の手を取って古い服が入った引き出しを閉めさせた。

 タツトは感謝の思いで彼女の顔を見た。

「さて、君の部屋を整えるのは追々やるとして、台所の方を案内させてくれ。」

 ソフィーが話題を変えてくれて、タツトはホッとした。

「ちなみに、さっき君が寝ていた部屋は私の部屋だ。この家のどこにでも自由に出入りしていいが、私の部屋だけは私の許可なく入っちゃダメだよ。」

 ソフィーが人差し指をたてながら言った。タツトは勝手に彼女の部屋には入らないと約束した。

「じゃあ、行こうか。」

 ソフィーは台所と食堂、風呂場やトイレ、そして居間と書斎を案内してくれた。

 やたらと物が多い家だが、タツトにはごく普通の家に見えた。
 ただ、家じゅうのあちこちに、乾燥した植物や、何に使うのかわからない鉱物や化石のようなものが溢れかえっていた。

「次は庭を見せよう。」

 二人は庭に出た。
 庭に出ると、この家が、ずいぶん田舎にあることがわかった。
 ここが田舎だということはわかるのに、自分がどのようなところに住んでいたかは全く思い出せなかった。

 ソフィーの家は小高い丘に建っており、周りはだだっ広い草原だった。離れたところに森も見えた。
 家の周りには腰の高さほどの石垣があり、庭と外とが区別されていたが、近所に他の家はなさそうだった。

 丘のずっと下の方に町が広がっている。

「あの町に僕を知っている人がいるかな…?」

 タツトはふと思ったことを口に出した。

「残念ながらそれはないな。ヒナゲシの妖精の毒で忘れてしまった相手は、同じように君のことを忘れてしまっている。なぜ相互的に記憶が失われるのかは未だに謎なんだが。」

 タツトは自分の中に悲しみの感情が芽生えるのかと思ったが、全く記憶にない人たちに忘れられたと聞いても、何の感情もわいてこなかった。

「忘れてしまったことを考えてもどうにもならない。タツトはこれからのことだけを考えるようにしろ。それが一番の治癒だ。」

 タツトはその言葉に頷いた。

 ソフィーは庭の片隅にある、馬小屋のようなところにタツトを連れてきた。

 小屋には森でタツトを乗せたあの大きな爬虫類がいた。
 そいつはソフィーに気が付くと、嬉しそうに寄って来た。

 あの時はこの生き物の全体が見えていなかったが、よくよく見ると、タツトにはその姿に見覚えがあった。

「これは…イグアノドン?」

 ソフィーが目を丸くしてタツトを見た。

「よくわかったな。」

「たぶん、僕はこういう生き物が好きだったんだと思う…。」

「この子はルルフ。タツトを森の中で見つけたのも彼女なんだ。」

(メス…なのか…。)

 小屋の奥にはもう一匹の爬虫類が寝ていた。

「あっちで寝ているのはガンフ。…起きそうもないな…。起きてる時にまた紹介するよ。」

 ガンフの方も、ルルフと同じくらい大きかった。

 大きな爬虫類…。つまり、ここにいるのは紛れもなく、恐竜だった。
 恐竜は、今から約6千万年前には絶滅したはずだ。まさか、彼らも妖精と同様に、実はいる…なんてことはないだろうか。

 いや、恐竜に限ってはありえない。
 タツトにはなぜだか、恐竜のことがよくわかるのだった。

「これは…今はいないはずの生き物でしょう?」

 タツトがソフィーを振り返りながら言うと、ソフィーはふふふと笑っていた。
 その笑顔に少しゾッとするものを感じて、タツトは一歩後ろに下がった。

「あ、あなたは一体、何者なんです?」

「私? 私はただのソフィーだ。…と言いたいところだけど。」

 言いながらソフィーはルルフの方へ歩いて行き、それの頭をなでた。

「私は滅びし竜を蘇らせる者。人は私のことを “丘の上の魔女” と呼んでいる。」

 言いながらソフィーがこちらを振り向いた。
 その非現実的な台詞と、彼女の美しさが相まって、まるで絵画の一部に入り込んでしまったかのように感じた。

 タツトは全身に鳥肌が立つのを覚えながら、ごくりと唾を飲み込んだ。

「魔女…?」

「そうだ。君が思っているとおり、彼らは ≪恐竜≫ だ。私は恐竜たちをこの世に再現・再生できる能力を持っているんだ。」

 再現・再生?? ドウイウコト?

 タツトの頭は混乱して爆発寸前だった。

「まあ、私のことはゆっくり話していこう。全部一遍に知ろうとすると頭がパンクするぞ。」

 ソフィーが小屋を後にして家の方へ歩いて行ってしまったので、タツトは急いで後を追った。

「あの…ソフィーさん、もう一つだけ、聞いてもいいですか?」

 ソフィーを追いかけながらタツトが言った。
 その声にソフィーは振り返って立ち止まった。

「ソフィーでいいよ。あと、そのかしこまった話し方はやめようか。」

「あ、うん、じゃあ、ソ、ソフィー。」

「何かな?」

「あの…ソフィーは、人間なの?」

 この質問に、ソフィーは気を悪くするかもと思ったが、彼女は笑って答えた。

「私は人間だよ。実は私も君みたいに迷い子だったんだよ。」

 家に戻ると、ソフィーは簡単にここでの生活を説明してくれた。

 ソフィーの暮らしはゆっくりしていた。

 庭の野菜を収穫し、森に出てキノコや薬草を取って来たり、そんなことを毎日しているようだった。

 こうして、タツトの何だかわからない第二の人生が始まったわけだが、初日にしていきなり変則な展開となった。

「君が起きて初日だし、今日はゆっくりお茶でもしようと思っていたのだが、急用ができてしまった。申し訳ないが明日の朝まで留守にする。食事は作ってもらえるから心配ない。留守番、できるかな?」

 タツトは独りで留守番など無理だと思ったが、それを表に出すのは恥ずかしいという気持ちもあり、頷いた。
 たが、内心は不安でしかなかった。
 そんなタツトの様子を知ってか知らずか、ソフィーはお構いなしに続ける。

「それから、私が留守の間、誰か来るかもしれない。この家にお前ひとりの時は、どんな奴が来ても決してドアを開けてはいけないように。ドアさえ開けなければ、この家には誰も入って来れない。いいね?」

 タツトは頷いた。

「君はこの家を自由に出入りできるけど、できる限り家からは出ないでほしい。とにかく、ひとりの時はどんな人が来てもドアを開けちゃだめだ。警官のような姿の者が来てもだ。」

 ソフィーが念を押して言って来たのでこれは大事なことなのだろうとタツトは感じた。

「それから、ルルフは私が連れていくが、ガンフは留守番専門だから置いていく。何かあったら君を守るように言ってあるから。」

 これらを一気に言い終えると、ソフィーは出かけて行った。
 きっとこれは予定になかった、本当の急用なのだろう。彼女の慌てた様子がタツトを不安にさせた。

 もしもソフィーが帰って来なかったらどうしよう…。

 タツトは首を振ってその考えを振り払った。

 誰も居なくなったソフィーの家の居間で、朝もらった絵本を読んでみた。
 それは呪いをかけられ百年の眠りについた姫の物語だった。
 姫の噂を聞き助けに来た王子は、茨の砦を超え、ドラゴンを倒し、ついに姫の元へ辿りつき、その口づけで呪いを解くことに成功する。

 読んだことがあるような、ないような、そんな物語だった。

 絵本を読み終わっても、一向に時間は進まなかった。
 家の中は物で溢れていたが、暇つぶしになりそうなものはあまりなかった。

 タツトは書斎へ入ってみた。ソフィーには、ここにある本は何でも読んでもいいと言われていた。
 ざっとみたところ、難しそうな本ばかりで、タツトが読めそうな本はなかった。

 書斎の椅子に座って、本棚に並んでいる古めかしい本の背表紙を眺めていると、眠くなってきた。
 いつしか、タツトはソフィーの書斎でうとうとと居眠りをしていた。

 ドンドン、ドンドン。

 誰かがドアを叩く音で目を覚ました。
 書斎の中はオレンジ色に染まっていて、夕暮れであることがわかった。

 ドンドン、ドンドン。

 また、ドアの音がした。
 どうやら玄関のドアを誰かが叩いているようだった。

 ソフィーは誰か来ても絶対にドアを開けてはいけないと言っていた。
 タツトはしばらく居留守を使ってやり過ごそうと思い、聞こえないフリを決め込んだ。

 しかし、ドアを叩いている主は一向に諦めてくれなかった。

 そのドアの叩き方は、少々神経に触るというか…とても嫌な感じの叩き方だった。
 一刻も早くドアを叩くのをやめてほしい。タツトはすぐに我慢がならなくなってきた。

 一体どんな奴がドアを叩いているのだろうか…と気になりはじめて、このままやり過ごすのは難しそうに思えてきた。
 向こうからこちらの姿が見えないように注意して、少し覗いてみるくらいなら大丈夫だろう…。

 タツトはそう思って、玄関の方へそっと近づいていった。
 ドアの横には外から丸見えの窓がついているので、タツトは靴箱の陰に体を隠して外の様子を覗った。

 ドアの外の人物は、今にもドアが壊れそうなくらいの勢いでドンドン叩いている。
 同時に何か叫んでいるのが聞こえて来た。

「ソフィーさん! ソフィーさん! こちらで男の子を保護していると聞きました! 私はその子の母親です!! どうか私の坊やを返してくれませんか!」

 タツトは驚いて思わず立ち上がってしまった。
 ドアの向こうには中年の女性が立っていた。

 女性はタツトに気が付いたのか、中をよく見ようとドアの横の窓からこちらを覗き込んで来た。
 強烈な夕日が逆光になってその顔はよく見えなかったが、恐怖と安堵が入り混じった何とも複雑な表情をしているように見えた。

 彼女はタツトの姿を見ると、涙を流し始めた。
 だがしかし、タツトにとっては、彼女は見知らぬただのおばさんだった。

「おお、私の坊や…!! 探したんだよ。おいで、母さんと一緒に返ろう…。」

 言いながらおばさんはドアノブをガチャガチャ鳴らした。

 タツトは少々違和感を覚えていたが、自分に記憶がないせいだろうかと考えた。
 この人は本当に自分の母親なのだろうか??

 こんなおばさんに、知らない男の子をわざわざ連れて帰る理由なんて他にあるだろうか?

 この人は本当に自分の母親なのかもしれない。

 タツトはソフィーの言いつけをすっかり忘れてしまった。

「ちょっと待って! いま開けるから!」

 そう言うと、タツトは玄関のドアを開けてしまった。

「おお! 我が子よぉおぉ!!!」

 ドアが開くなり、おばさんの表情が変わり、世にも恐ろしいニタニタ笑いになっていた。
 しまった! と思った瞬間、人影がさっと目の前を横切り、おばさんが横へ吹っ飛んだ。

 え?

 と思って見ると、見知らぬ若い男が玄関先に立っていて、吹っ飛んだおばさんを睨みつけていた。
 後ろ姿だったが、その人はどことなくソフィーと似ている気がした。

 日が沈み始めて薄暗くなってきた中、突然現れた男にぶっ飛ばされたおばさんの方を見ると、彼女は怒りに満ちた表情で立ち上がろうとしているところだった。

 それを見ると男は、人間業とは思えない俊敏さで動き、四つ這いになっているおばさんに躊躇なく飛び蹴りを食らわした。
 信じられないことにおばさんはその飛び蹴りを両腕で受け止めた。

「やめてよ! その人は僕の母さんなんだ!」

 咄嗟にタツトはいきなり戦い始めた二人を止めに入った。

「タツト、よく見ろ。こいつはおまえの母さんじゃねぇぞ!」

 男に促されておばさんをよく見ると、おばさんの顔や腕に緑色のフサフサとした毛が生え、とても人間のものとは思えない形相になっていた。
 見開かれた眼球は今にも顔から飛び出しそうだったし、口には牙も生えているようだった。

 タツトは悲鳴を上げておばさんから離れた。

「タツトは家の奥に行ってろ。」

 言われるがままにタツトは後ずさり、靴箱の陰に身を隠した。
 誰だかはわからないが、あの男の人は味方らしいことがわかった。

 外で二人が戦っている音がしばらく聞こえ、そして静かになった。
 一瞬、あの男の人が負けていたらどうしようと思ったが、そんな心配は不要だった。

「お前は、ヒナゲシの妖精の使いか?」

 さっきの男の人が、あの化け物に向かって言っている声が聞こえた。

 それに対して、ゴニョゴニョと小さな声でしわがれた声が答えるのが聞こえたが、何と言っているのかはわからなかった。

「お前の雇い主に伝えろ。今後、絶対にタツトには手を出すんじゃねぇ。少しでもお前たちが近寄った形跡を発見したら、丘の上の魔女が許さねぇとな。解ったら行けっ!」

 足音が走り去って行くのが聞こえた。
 さっきの気味の悪いおばさんが去ったのだろう。

 男の人が家の中に入って来て玄関のドアを閉めた。

「気が付くのが遅れてすまなかったな。」

 タツトはゆっくりと靴箱の陰から顔を出した。
 男の人の顔を改めてよく見ると、本当にソフィーとそっくりだった。
 目の色も同じ緑色だ。

「ソフィーから玄関を開けちゃダメって言われてたろう?」

 この人はソフィーの兄弟とかだろうか?

「あの…ありがとうございました。あなたは誰です?」

 今度は男の人が「え?」という顔をする番だった。

「まさかお前、俺のこと何も聞いてねぇのか?」

 タツトはおずおずと頷いた。

「慌てすぎだろう…ソフィーの奴……。俺はガンフだよ。」

 そういうと、男の人は右手を持ち上げて、目の前で恐竜の手に変化させた。

「ガンフ!? 小屋にいた恐竜の?」

「俺は恐竜と人間の両方を持っている。恐竜姿は落ち着くんだけどね、身体が重くって。ああいうお客に対応するときはこっちの姿が適しているってぇわけさ。」

 ってぇわけさ…と言われても…。

 少年はこの辺から実は今、夢を見ているのかもしれないと思い始めていた。
 夢だったら何でもありじゃないか。森で迷子になったところから、全部、夢なんじゃないだろうか?

 いちいち驚いていたり疑ったりするのは時間の無駄なのかもしれない。全てを受け入れた方が楽だ。
 タツトは悟りにも似た気持ちになっていた。

 気が付くと、あたりはすっかり夜になっていた。

「腹減ってるだろう? 夕食にしようぜ。」

 ガンフが言い、何事もなかったかのように二人分の夕食を用意してくれた。
 その間、タツトはガンフの様子を観察したが、普通の人間に見えた。先ほど恐竜の手を見せられなかったら、彼があの小屋で寝ていたガンフだとは信じなかっただろう。

 ガンフはまさに男版のソフィーといった感じだった。
 黒髪は短く切っているが、さらっとした質感はソフィーと同じである。

 いったいどういうことなのだろうか?

「食べな。俺のことをジロジロ見てるってことは、いろいろ質問があるんだろうけど、話は明日ソフィーが帰って来てからだ。食ったら風呂に入って今日はもう寝ろ。今夜はさすがにもう何も来ねぇだろう。」

 タツトはガンフの言うとおりに夕食を食べたら風呂に入って寝た。
 なかなか寝付けないだろうと思ったが、緊張が解けたせいか、すぐに眠ってしまった。

 朝になり、居間へ行くと、ソフィーが帰って来ていた。ガンフがちょうど昨日の話をしているようだった。
 ソフィーは眠そうな目をして、濡れた髪をタオルでゴシゴシと雑に拭いていた。
 黒いバスローブを着ている。風呂上りのようだ。

 タツトが起きてきたのに気が付くと、ソフィーが駆け寄ってきて、彼の身体のあちこちを確認した。
 ソフィーからはふわっと石鹸の香りがした。

「あれほど玄関を開けるなと言ったのに。ケガはしてないか?」

「だ、大丈夫…。ごめんなさい。」

「いや、私の説明が不足していた。申し訳ない。」

「そうだよ、ソフィー。こいつ、俺のことも初耳みてぇな顔してたぜ。」

 ソフィーはガンフに向かって、すまない…と言った表情をしてみせた。

「ひとまずよかった。私はこれから3時間寝る。起きたら対応を考えよう。」

 ソフィーは歩きながらもう寝ていると言う感じでフラフラと廊下を歩き、バタンと自分の部屋に入ってしまった。

 タツトがガンフの方を見ると、ガンフもこちらを見た。そして、肩をすくめる仕草をして見せた。

「ソフィーはいつもああなの?」

「うーん…今朝は格別疲れてるようだったな。」

「何をしてきたの? 僕と関係あること?」

「それについては俺の口からは言えねぇ。悪いな。でも、お前とは関係ねぇよ。」

 自分とは関係ないと聞いて、ほっとするような、少しがっかりするような気持ちがした。

「食え。」

 ガンフが朝ごはんを用意してくれていた。

 朝ごはんを食べ終わっても、ソフィーが起きてくるまでにまだ時間があり、ガンフも何も教えてくれそうもなかったので、昨日に引き続きタツトは書斎に行った。
 背表紙を見ても何の本だか解らないものばかりだったので、適当な1冊を手に取って開いてみた。

 書いてある文字は読めなかったが、それは恐竜の図鑑だった。
 タツトはそこに書かれているほとんどの恐竜の名前を知っていた。

 そこからこの本に書かれている文字が解読できるかも、と思った。
 本の中から恐竜の名称と思われる箇所の文字を見比べてみると、思ったところに同じ文字が繰り返し出て来ていた。
 タツトは「サウルス」という綴りをすぐに覚えることができた。

 この図鑑はずいぶん古そうだったが、最新の内容のように思えた。
 むしろ、最先端だった。

 タツトの知らない恐竜もいくつか載っていた。

 この図鑑には骨格標本は載っておらず、全て生きているころの想像図が載っていた。
 それらの想像図は、タツトが知るものとずいぶんと違うものも多かったが、不思議とそれが正解と思えるほどリアルな図だった。

 タツトは夢中になって本の中に描かれた恐竜たちの姿を眺めた。

 ふと顔を上げると、書斎の入口にソフィーが立っていて、優しい顔でこちらを見ていた。

「お前は本当に恐竜が好きなんだな。」

 タツトと目が合うとソフィーが言った。

「この本は何? 古そうなのに内容がとっても新しい。」

「居間においで。その件についても説明してあげよう。」

 ソフィーが行ってしまったので、タツトは本を棚に戻して居間へ向かった。

 居間にはソフィーとガンフがいて、テーブルの上に石や化石をいろいろ並べていた。

「私が恐竜を再現・再生できる能力を持っているという話はしたな?」

 頷くタツト。

「私はこうやって化石と石を配置して、詠唱することで恐竜を再生することができる。あの本は、我々の仲間が長い年月をかけて研究した内容がまとめられている。」

「つまり…」

「つまり、あの本に載っているのは、実物の恐竜を観察して書いたものだ。」

「それは、魔法…なの?」

「厳密に言うと違うのだが、そう解釈した方が今は解りやすいだろう。この石は特にヒナゲシの妖精が嫌う構造式を持っているから…」

 言いながら、ソフィーは石を並べる手を止めて、じっとタツトの顔を見た。

「これからお前のお守り…相棒を用意しようと思う。お前が好きなジュラ紀の恐竜は何だ?」

「ステゴサウルス。」

「ああ、あの子たちは確かにかわいい。だが、ちょっとでかすぎるな。」

「翼竜はダメなの?」

 恐竜も好きだが、翼竜も好きなタツトであった。

「そうだな…私がアクセスできるのは概ねジュラ紀に相当する2億100万年前から1億5000万年前までの恐竜だけだ。」

 翼竜は恐竜の一種のように見えるが、実は違う生き物である。
 翼竜をこの目で見る事ができるかも、と思ったのでタツトは少しがっかりした。

「飛ぶ奴が好きなのか?」

「うん、本当はプテラノドンが一番好きなんだ。」

「そうか。私は白亜紀の範囲にはほとんどアクセスできないし、翼竜にもアクセス権がない。すまないな。」

 彼女が使っている能力にはいろいろ制限があるようだった。

「それだったら、ちょうどいいのがいるぞ。」

 ソフィーは何か思いついたらしく、化石の中から小さな欠片を拾い上げた。

「この子を再生しよう。」

「それは何?」

「出てのお楽しみにしよう。」

 ソフィーはいたずらっぽい表情をして、拾い上げた化石を円形に並べた石の中央に置いた。

かい。」

 ソフィーが言うと、並べた石の中の空間がボワンと青白く光った。

「遂行、なみ。汝の根を辿り、その肉体の真実なる姿をここに再現せよ。波。」

 ソフィーの言葉に反応するかのように化石が浮かび上がった。

 驚くタツトの目の前で、小さな化石の破片が育つように伸びて、骨格が作られて行った。
 骨はクルっクルっと回転して大きくなっていき、見えない誰かが骨を持ち上げて組み立ているように見えた。

 やがて骨格が完全に再現されると、今度は内臓や筋肉がついていった。

 この時点でタツトはもうこの生き物が何であるか解っていた。

 筋肉が付き終わると、皮膚が出現し、そして羽が生え始めた。

 カラスほどの大きさの、美しい羽根の生えた生き物。
 でも鳥ではない。

 くちばしは平らで歯が生えているし、翼の中央に鋭い三本に鉤爪がついている。

 始祖鳥…。
 アーケオプテリクスだ。しかも生きている!

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(つづく)
中へ →

当物語の扉絵および本文に挿入されている始祖鳥の絵は 橘鶫TsugumiTachibana さんの作品です。

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