人間は、「助けたい。」気持ちを持っている。幼い頃からお手伝いをしようとして、失敗すると深い傷を負う(泣)
私は、2人の子供にとても優しくしてもらっている。だけど彼らに対して長い間、酷い対応をしてきた。突然、怒鳴ったり、叩いたり、無視したり、子供達に深い傷を残した。
人間は、「性善説」か「性悪説」か議論の的になっている。
性善説と性悪説は、「人間の自然本性は善である」とする説と「悪である」とする説。 古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の対立に由来する。日本では明治時代に西村茂樹や井上哲次郎が哲学・倫理学の問題として再解釈した。そこから派生して、現代の日本では様々な文脈や意味合いで使われる。 ウィキペディア
人間は、それぞれ生まれ持ったものがあるけれど、「人格」は出生以後磨かれる。個人の経験を通して、手本となる。
良い見本も悪い見本も子供達は、自分の経験として受け止めていく。
子供達に酷い経験をさせたという事実から、逃げることも、なかったことにすることも、言い訳することもしない。
私が見てきた親達は、「そんな事したっけ?」とか「あの時は仕方がなかった。」と逆ギレして、向き合う事がなかった。
私は何度も立ち会い、子供達の絶望を目の当たりにして、親子関係を修復することはなかった。
親もまた、その親からの虐待や抑圧から卒業できなければ負の連鎖は無限に拡がり続ける。
私の場合
私はずっと親に無視され続けてきた。両親は、村や親戚、宗教団体等の様々な抑圧の中で生きていた。後年、母親は蜘蛛の巣を張るような自由のないがんじがらめの中にいるようだったと言っていたのを思い出す。親に愛されたい。だけど親には余裕がない。そうすると、子供は愛されたくてしがみつく。愛されたい体験をしてみたい。
必要とされたい。
これがもし生まれてから、充分に愛されて育てられていたら、愛に対する渇望も苦悩もなく、自分は「愛されている」という自信を持って、社会に出ていける。
私は失敗した。子育てしながら親に認められたいと実家の近くをうろちょろし、子供達に寂しい思いをさせた。寂しい思いをさせただけでなく、夫や両親から愛されない憤りをぶつけてしまっていた。
すべてのしがらみを捨て、私は、子供達2人と家族3人になって初めて「愛情問題の苦悩」に向き合う時間を持つことができた。
学校の帰り道にたんぽぽを摘んで「ママ、天ぷらにして。」と無邪気に言ってくれた時の娘の小さな手。
「ママ、僕のお口を見ながら寝て。」と私を見つめていた息子の顔。
私が愛されずに苦しんでいた時に、そばて、私の子供達は私をずっと愛してくれていたこと。
気づかずにいた。
心から申し訳なく思う。
自分の体験を通じて、親子の絆の修復のお手伝いをしていきたいと思う。
人間は、「助けたい。」という願望を達成するために、家族を持ち、社会を形成していってる!
寂しさのスキに入り込む、家族分断の左翼思想の罠にはまらないように!
まずは、個人と家族の見直しから始めましょう!
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