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カウンセラーに救いを求めたのに、裏切られる悪循環を、どうすれは超えていけるのか(カウンセラー向けの論考)

自分が依存できる相手は、単に「探す」というだけは不毛に終わることが少なくないのは当然想像できる。

私がなぜか援助してくださる相手で当たりくじしか引かず、ひどい扱いを受けたことがないのは、私の学歴や職歴とあまりに不釣り合いな状況にあることも見るに見かねてというのはあると思うが、もうひとつは、私が、そういう人たちの中の「善性」みたいなものを引き出している所がある気がしてならないのだ。

それは私の生まれ持っての特性かもしれないし、後天的に身に着けた、カウンセラーとしてのアサーティブな言語化能力も影響しているのではないかと思う。

こういういい方は問題もあるのかもしれないが、ひどい扱いを受けて育った人は、人に助けを求めても、手ひどい扱いを受けるという「反復強迫」に陥ることはままあると思う。

実は無意識的に相手を「挑発」する言動をしているのでは、などというつもりはない。仮にそうだったとしても、そうなるように養育者との関係が形成されていたわけで、無力な子供に何ができるというのか。

この点、そうした「援助を受けたい相手」への認知行動の悪循環を単に認知行動療法的に「矯正」しようとか、分析系の人が「徹底操作」しようと治療者側が乗り出す気持ちになるのは、控えめに言っても危険な「欲」である。

それは一歩間違えば「二次被害」を生じさせ、再び去らせるだけである。

こうしてカウンセラーという人種への悪評がそういう人たちから拡散されているのが現状だと私は考える。

パターナリズムは、いかに善意であろうと克服される必要がある。

そこに布置されているのは、権力的な上下関係なのである。

恐らくこうしたことはすでに多くの専門家に認識され、それを克服するためのパラダイムも提起され、実践されているものとは思うが、私は不勉強である。

ただ、私なりにひとつだけ言えるのは、援助者自身が、自分の他者から援助を受けたい気持ちを徹底的にみつめる場を持つべきということである。

ただしここにも厄介なところがあって、その援助者自身が自分をみつめる場での「更なる援助者」との関係がパタースティックな上下関係であった場合、今度はそれをクライエントとの間で「再演」することになりかねないことである。

要するに、カウンセラー自身が救済された「宗教」に入信させようとする形になりやすい。

こうして最後には、私としては、援助的専門家よ、周囲の専門家ではない相手(家族には荷が重すぎる)を意地でもみつけて、守秘義務を守った範囲で、癒しを得られる関係を作れよな、というところに行きつく。

くりかえすが、カウンセラーなら、そういう相手候補を「育成」する潜在力は持っている筈。

お互いに育てあえ、癒しあえる、気さくなつきあいのできる相手を家庭の外に探せ。

もうひとつは(いわれ尽くしたことだが)ひとりで楽しめる趣味を持つことである。

「人間中毒」になったら、実は人を援助できないわけである。

神なき時代の個人は、自己責任か、あるいは依存でき、救ってくれる生身の「マリア様」を探すかという、非常に「救いのいない」ジレンマと重荷に苦しんでいると思う。

私は基本的に、宗教は、コミュニティーに癒されること以上に、神様や仏様に直接救いを求め、そうした存在に癒されているという実感を持てることが大事だと思う。

もちろん、その神様を信仰することを、クライエントさんに勧めてはだめですよ。

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