いわゆる「解離(人格の交代)」について

クライエントさんにとって、恐らく少なからぬ治療者は、えらく「人工的な」仮面をつけていて、その鎧の下から色々なものがちらつく存在に映るのではなかろうか。それはクライエントさんの生育歴による「認知の歪み」などではなく、まさに「その面接場面での」関係性の中で生じていることではないか。


すでに上の記事でも書きましたが、心理療法場面において、クライエントさんを「退行」させないと、幼児期の体験を掘り起こせず、セラピーにならないというのは嘘だと思っています。その人はすでに、苦しいながらも世間の(少なくとも片隅で)サバイバルできるだけの、オトナの能力を開花できているのですから。

そこに至るまでのクライエントさんの苦しい道のりには、いたわる必要があるとおもいますが。

これは何も特別な考え方ではなくて、例えば、精神分析における「対人関係学派」、そして「解決指向心理療法」、「ブリーフサイコセラピー」はそうした考え方が強いでしょうね。こういう技法も杓子定規になったら別の弊害も出ると思いますが。

もちろんご本人が子供時代からの虐待経験を話して聴いて欲しいというのであればまずはじっくりうかがうことが大事かと思います(この点前述の幾つかの療法は型にはまると杓子定規にそこを避ける傾向がある)。しかし自由連想や催眠とかで覚えてもいない幼児期の虐待経験まで想起させるのはどうか?

これから「解離」ということについて書いていきますが、これは、本人の意志に関係なく、人格が交代してしまい、別人のようにふるまい、もとの人格(主人格)に戻ったら、それが記憶に全くない状態を指すと思っていただけるといいかと思います。

その解離した状態で、リストカットなどに走り、主人格に戻ると、自分の傷に驚くなどという場合もあるようです。

その人の持って生まれた「解離」しやすさというのは想定されているようですが、少なからぬ場合、子供時代の深刻な虐待や性被害があるとされます。

これは子供時代に限定はされず、PTSDにおけるフラッシュバックも、普段は解離している記憶が、突如主人格の中に、ねじ込んでくるように現れるともとらえられるかと思います。

ある意味では「解離」することすら、自分を守るための「健全な」能力の発露だと思います。それをひとつの人格に「統合」しようとする必要が常にあるのか? もし本人が日常生活で困ってなくて、解決しないままでいいというのなら、「解離」したままでもいいとすら思います。

私は生粋の解離性同一性障害(DID)の方とお会いした経験まではありませんが、下手な精神療法する治療者の手にかかると、「解離」する人格はむしろどんどん増えていったりもするらしいですね。「解離」を治療するのは、あくまでも「本人が困るから」であるべきと私は考えます。

ある意味では、一見普通に生活できているかに見える人でも、実は「解離」の心理機制を弱いながらも用いているからバランスを保っていられる(それが人に迷惑になる場合もありますが)。「解離」とはスペクトラムだという理解も大事かと思います。

・・・などど、自分が特に専門分野でもない「解離」のことを書いてしまいました。実際にこの症状で苦しまれている方がどういう感想をお持ちだろうかと言う懸念はいだきますが、ただ、そもそも心理療法というのは、フロイトに先んじて、ピエール・ジャネがこの問題を取り上げたから始まったのです。

現場で重症の方と接するかどうかは別として、解離の問題について、最新の動向(人格の「統合」を理想化しない)をある程度掴んでおくことはベースラインかと思います。ボーダーラインと診断を受ける人のsplit(人格の「隔離」)の心理機制すら、解離の一種とも言えそうですし。だから境界性人格障害と解離性同一性障害(多重人格障害)はしばしば誤診されます。

ある意味では、自分も苦しまずに、人にも迷惑をかけず(ましてや自分の子供にも悪影響を与えず)という、弱い次元で済むなら、人は、「解離」する「能力」があるから、何とか現実をサバイバルできているのだ、という視点もあっていいとすら思います。

「統合」された、ひとつの「人格」というのはある意味で「幻想」に過ぎないと思います。実はこのように言うことに違和感を覚える人のほうが、平然と、無責任に、日常の中で「解離」の心理機制を使って、人に迷惑をかけて平気にしている、という逆説すらある気がして。



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