私の「ボーダーライン(境界例)」観

私は、いわゆる「境界例」の人のかなりの部分が、歴代の医者やカウンセラーによって「こじれさせれている」とみている。専門家はいつの間にか「人工的な」態度が身についていて、その「鎧」の隙間からちらつくものを敏感に察知できる人たちなのだと思っています。

そういう「鎧」の隙間に、とことん「負荷試験」をかけてくるわけである。それはある意味で「当然の」ことなのではないでしょうか? それをもともとの「病理の深さ」とか「巻き込み」とか言っている側が実は火種を巻いているわけです。治療者が病を「作った」とは言いませんが、「負荷試験」をかけてくる心情は当然かと。

これ、もともと、自分の「自己愛」には自覚的なまま(これは大事。メサイヤコンプレックスになる危険にとことん用心深くあること)、自分の地金をちょこちょこ出すタイプだった、カウンセラーとしての私の経験則。

これは大昔の事例だから書いてもいいでしょうかど、一回「目の前で」盛大にリスカされ、とっさに腕を縛り上げ、保健室に非常ブザーを押したことはありましたが、終始冷静にやったら、そのあとは非常に安定した絆が築けました。立派に就職して安定して過ごしてます。

この1例以外、自分を振り回してくる「困ったちゃん」になってしまうクライエントさんと会ったことがないですね。まあ、私の前では「病理」示せなくて、「偽りの自分」で通したので気づけなかっただけかもしれないけども。でも病理を露出させて「生体解剖」しないとセラピーではないという見方には私は懐疑的です。

変な言い方かもしれないけど、「セラピー」して「治して」あげないととか思っていると、クライエントさんの病理を「深刻化」させることがある気がします。そしてそれを「幼児期からの深刻な生育歴」のせいだ、とか言い出すわけで。「現在」そのクライエントさんがどうあるのか自体が、セラピストとの関係性の関数なんだと思います。

広い意味で、対人援助職の人は、「使命感」に燃えて「身を犠牲にして」仕事しないほうがいいと思います。援助職を神様かのように思わせてしまう。それをやるから、相手は「退行」して「困ったちゃん」になるのですね。卵とニワトリが反対なのです。

「退行」させないと、幼児期の体験を掘り起こせず、セラピーにならないというのは嘘だと思っています。その人はすでに、苦しいながらも世間の(少なくとも片隅で)サバイバルできるだけの、オトナの能力を開花できているのですから。

もちろん、これって、治療機関や施設で勤務して仕事してたら、自分はどうであろうと「他の」職員や歴代治療者によって引き出され、増幅された人を相手にしなければならないことが多いわけで、一筋縄ではいかないことは理解します。私が今は個人開業だから楽してるのかもしれません。

多くの援助的専門家はムリして自分を作ってる。そういう「自己犠牲」を強いる職場環境、そしてそれを生み出す制度、ひいては政治・社会のあり方まで問題にすべきではありますが、ともかく「使命感に燃えて」、対人援助的専門家になるな、という「逆説」は強調したいです。

ともかく、ホントに「人助け」したいなら、「使命感に燃えて」「自分の身を犠牲にして」仕事しようとするのはやめておけよとはいいたいです。患者さんに自分を「高く買わせ」、それが破綻して、失望と怒りを招くわけです。中井久夫先生の言葉を借りれば、「治療にロマンを求めてはならない」

いささか逆説的ですが、援助職として働くのは、自分が、「ふさわしい」生活の糧を得るためだと思う方がいい。間違っても「人間中毒」になってはならない。孤独に趣味に没頭できる時間とか無理してでも持つべきと思います。

もう一度まとめますと、パーソナリティ障害と言われる人たちは、生まれついての敏感さと、子供時代の(ネグレクトを含む、少なくとも精神的な)被虐待歴があることが少なくないかと思いますが、それに加えて、治療機関での「専門家」の、無理した「人工的な」仮面をかぶった態度と、それが破綻することによる「二次被害」の犠牲者であることが多いと思います。

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以上、「ホントに深刻なパーソナリティ障害の人と会ったことがないだろ」と言われるのを覚悟で書いておきます。

ここで書いたことは、別に私の勝手な見解ではありません。中井久夫先生が、境界例についてお書きの論考に準拠したものです。


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