「こころの科学」特集号「心理臨床と政治」について
まず、#東畑開人 氏の緒論、「心と政治 ーーー善く生きることへのふたつのまなざし」だが、よくもまあここまでクレパーに日本の心理臨床史を巨視的に総括したという印象。
ただしロジャーズ 派については 単純化されすぎている嫌いもあると、インサイダーとしての私は感じる。
更に言えば、#下山晴彦 先生(私の先輩である)のお書きの部分、先生、公然たる #佐治守男 門下だと思うのだが、ロジャーズ的な「カウンセリング」を「心理療法」より素人的で低次元なものという印象を与えかねない書き方、やめて欲しいと思う。
ロジャーズ派カウンセリングは、ロジャースやジェンドリン自身の論文を熟読すれば、専門的な訓練が必要な精緻そのものの技法体系であることがわかるはずなのに・・・である。
確かに佐治守男先生は、ロジャーズを「体系的に」教えてくださるタイプではなかったとは思うが、いくらなんでもなあ、と思う。
「無条件の積極的関心(unconditional positive ragard)」(敢えて、「受容」とは書かない)
「内的照合枠(inner frame of reference)からの理解」
(敢えて、「共感」とは書かない)
って、実は非常に精緻な、訓練によってやっと獲得できる専門技能であって、全然ホンワカしたところがない「峻厳な」技能である。
治療者の「自己一致・純粋性」だって、実は「完全に」技法として定式化できる。 これはすでにジェンドリンがウィンスコンシン・プロジェクトにおける統合失調症患者相手のアプローチですでに示していた。
「国家資格化は権力とつながるものである。従って弱者への共感を重視するカウンセラーは国家資格を持つべきではない」とし、一部の患者グループと連携して反権力闘争を繰り広げ・・・」(#下山晴彦)
1969年だから私がまだ9歳の時だが、ここにいわゆる「ロジャース派」の人が関与したのだろうか?どなたかご教授願いたい。
ただ、何か東畑さんの書いていることと読み合わせると、ロジャーズ派全体について誤解と偏見を与えかねない記述だと思う。
「カウンセリング」と「心理療法」を別のものととらえ、前者を素人的で底が浅いものと誤解させかねない東畑氏と下山氏の叙述には、断固抗議したい。
恐らく、下山氏は、#イザヤ・ベンタザン こと #山本七平 が「日本人とユダヤ人」で書いている意味での「日本教徒『ロジャーズ』派」の「お花畑」的現実を念頭に置いておられるのであろうことは理解したいが。
なお、このように思うに至ったので、Xのスペースで、2024年6月1日(土)21:00より、ロジャース派カウンセリングの技法の「真髄」についてわかりやすく解説することにしました。
https://x.com/i/spaces/1vAxRvwaZZPxl
日本人の心理療法「学界」って、日本の偉いセンセーへの中途半端なファンクラブでの内輪にしか通じない「雰囲気」的なやりとりを教えか何かと勘違いして、実はロジャーズならロジャーズ、ジェンドリンならジェンドリン自身の論文(原文)にあたってないで議論しているのではないか????
学界でのアカデミックな「業績」を示すためには「オリジナリティ」を主張せねばならないわけだが、そうしたものの大半は国内国外の「先行研究」の論文を探しまくり、精緻に読みさせすれば「大抵」先例がある。
そういう自己満足的な「オリジナリティ」の上にたって議論するから、オリジナルのレジェンドの持つ深みと切れ味が、どんどん鈍(なまく)らなものとして伝播されるのである。
*******
・・・ちょっと今回の特集号のレビューから逸脱したことまで述べてしまったが、たとえば、#山崎孝明 さんがお書きの「学派たちの政治」には「全面的に」賛同である。
今回の特集号は、既に述べたロジャース派「カウンセリング」についての扱いを唯一の疑問点とする以外は、非常に包括的かつ刺激的な形で、日本の臨床実践史と新たな問題提起をしている、「必読」の内容だと判断するに至った。
特に #DV や #フェミニズム、#依存症 の観点からの現場臨床をどうしていくかという際に、安易に流れることを戒めるチェックリスト的機能があると思われる。
SNSでこの種の問題を扱うアカウントの中の人は、是非この特集号に目を通すべきかと思う。