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「響」: 原作を先に読んでいた私の、映画についての感想

「響 〜小説家になる方法〜」の原作(柳本光晴)は、漫画大賞2017を受賞した直後に、その話題性もあり、興味を持って読んでいた。

私は、響が物語の中で、芥川賞・直木賞を受賞したあたり(コミックス第6巻)で、物語として一区切りかなと感じ、読み進めるのを止めてしまって、結局それっきりになっていた。

それが今日(深夜)になって、Amazon Prime Videoで、何か観てみたい作品がないかと漁っている時、偶然映画版にめぐりあって、早速観てみることにした。

(元)欅坂46の平手友梨奈(てち)が主役の響役を務めていることと、Youtubeだっと思うが、撮影風景の短い動画ぐらいしか予備知識はなかった。

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私は、映画として非常によくできていると思った。

原作って、こんなにおもしろかったっけ?と思うぐらいに、構成に優れていて、スピード感もよく、なかなかいい、正統派の娯楽映画だと感じた。

てちこと平手友梨奈のヒロインの演技も、響というエキセントリックなキャラクターを見事に演じていて、非常に印象に残った。

天才とは「危ない橋」を渡るものである。

才能ある作家が、人間的にも、社交的にも秀でている必要あるというのは、勝手な期待だと思う。

文学に限らず、俳優・音楽の世界とかでも、私生活となるとエキセントリックな人物はたくさんいる。

それが犯罪の域に達すれば、処罰されるしかない。

しかし物語の中の響は、突発的に暴力的にはなるが、警察につかまる域ではない。

文学に対する探究心と純粋さは人一倍あるキャラクターとして描かれている。膨大な量の小説も読破した上で自分の作品を書いているのであり、決してひとりよがりではないことがわかる。

そして、響は、真に実力がある作家には、敬意を持って進んで握手を求める。

映画は、「彼女自身と彼女を才能ある作家として認める編集者」VS.「彼女の小説を読みもせずに、ただ話題性と、暴力のスキャンダル目当てのマスコミ」、という対立構図を、鮮明に映し出していると思えた。

調べてみたら、平手友梨奈は、第42回日本アカデミー賞「新人俳優賞」を受賞していたとのことである。

私はその年の日本映画を一本も観ていないが、この受賞が、てちという、欅坂46の中で大スターであるという話題性にのっただけのものとはとても思えない。おそらく審査員の目はそんなことでは曇っていなかったのではないか。

これは、物語の中で、響の新人賞受賞、引き続いては芥川・直木賞受賞が、才能を見極めた審査員によるもので、15歳の一介の高校生という「話題性」に乗じたものではないことと、はからずも「平行関係」にあることになるから、面白いものである。

ちなみに、この作品(原作も映画も)の中では、響以外を含めて、登場する作家の作品がどんな物語かは、具体的に一切描かれていない。これは作者の実に潔い決断だと思う。

そんな、天才作家の作品など、物語の中の物語として、創造できるわけがないではないか。

このへん、「バクマン。」と共通の潔さがあると思う。

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さて、私はここまで来て、もう一度原作のコミックスを読み返すことにした。

芥川賞・直木賞受賞までなら、結果的に私が読んでいた第6巻までと一致することなり、しかもコミックだから、2時間も要しないで読むことができた。

第一印象。

主人公の響って、こんなに不細工で魅力的ではないキャラクターデザインだったのか!!

そして、こんなにも、時々、エキセントリックではない、軟弱な普通のキャラになってしまうシーンがあったのか。

響が天真爛漫になるのは、(ネタバレになるが)あの「動物園」のシーンに絞り込んでいるからこそ、意味があるのだと思う。

もともとこの原作は、いわゆる「画力」で見せる作品ではない。ストーリーの魅力で魅せるタイプの作品だと改めて感じた。

映画の筋が完全に原作通りで、セリフも原作そのまま、ただ、登場人物(他の作家、文芸部の部員花代子)を若干絞り、ストーリーの枝葉を刈り込んだだけであることにも気づく。(この点については、このエントリーの末尾「追記の追記の追記」で、批判的にとらえてもいいことについても言及した)

むしろ原作を「濃縮」すればこうなる、という表現で、原作のある映像作品にありがちな、映像監督のひとりよがりは皆無である。

分かる人にはわかるネタバレになるが、原作では「飛び降りていない」のが、映画では「実際に飛び降りている」ぐらいの改変しかないのである。

響は、他の登場人物と何回か平手打ちの応酬をするのだが、この点では映画の方が徹底している。

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・・・ところが、更に調べたところ、この映画の興行成績は散々のものだったらしいと知った。

平手友梨奈主演でヒット原作という好条件、しかも、すでに述べたように、映画は原作に非常に忠実な部類に属するというのに、この結果はなんなのか、私には全く理解に苦しむのである。

これは、先日取り上げた、細田守監督のアニメ映画、「未来のミライ」が、外国を中心に高い栄誉を受けたのに対して、「オオカミこどもの雨と雪」の頃に比べれば、日本での興行収入がかなり振るわなかったのとも共通の現象にも思う。

「未来のミライ」の場合には、細田監督が、普通なら「横向き」にストーリーを進めるところを、いわば「縦向き」に進めるというスタイルに敢えて挑戦したことへの戸惑いが観客にあったかもしれないが、素直に観れば決して難解な映画ではない。

「未来のミライ」、セリフによって過剰なまでに「説明」してくれていて、「そこまで解説はいらんわい」というレヴェルであり、この作品を素直に楽しめなかった人たちが少なくないという現象は、誠に理解に苦しむように思っている。細田作品で、これほど何度となくウフフと(だだし、大爆笑ではなく、まざにウフフである)観れるものはなかったと私は感じているくらいではある。「サマーウォーズ」も笑えるのだが、笑いの質が異なっている。

ましてや、映画版の「響」に至っては、てちの醸し出す雰囲気と演技は、原作を忠実に膨らませたものであり、ストーリーとしても微塵の難解さもなく、すでに述べたように、原作の魅力を最大限に抽出して、純化していると思え、原作ファンの期待を裏切らない出来だったと思うのだが。

小難しい作家の名前が出てこないことなど、潔いくらいである。何の予備知識を要求せず、私の印象では、原作をまるで知らない、平手友梨奈にまるで興味のない幅広い観客にも楽しめるように思えてならないのだが。

何か、今の観客って、おかしいんじゃない?素直に観ればいいのに、という気にすらなってくる。

決して「芸術的な」映画ではない。しかし見事な娯楽映画だと思う。

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【追記】:今はじめて原作のAmazonのレビュー読みに行ったけど、ここまで散々の評価とは思わなかった。

響はちゃんと言っているのだ。

「つまらないって言うのはかまわない。でもちゃんと読んでから判断しないのは卑怯よ」と。

ちゃんと暴力的になる時にははっきり動機がある。

むしろ行動がキャンダラスだというだけで貶めようとしたり、賞をとったからという理由だけですり寄ってくるような「表面的な評価」に左右される連中に対する社会風刺的な作品なのだと思う。

この作品そのものが「文学的」である必要はさらさらない。

確かに、原作は作画的には稚拙というのに近いから、「映画は好きだが原作はいただけない」という人がいても理解できる。

てちの魅力が原作の絵の拙さを補っていると思う。

むしろ原作の純度を濃縮すればこうなる、という映画。

ついでにいえば、主人公を「サイコパス」やら発達障害扱いする人など片腹痛い。

サイコパスや発達障害とはこんなものではないのだよ。

この映画を嫌いな人は、原作も嫌い、そういう単純なことかと思います。

原作の尊重という点では、もうこれ以上あり得ない域だから。

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【追記の追記】:映画の方のAmazonレビューを見てきました。

そっちは高評価が多いみたいで、安心。

てち信者の盲目的なレビューなんてほとんどみられません。

【追記の追記の追記】:

Amazonレビューを詳しく読んでいくと、原作ファンの中にも、「原作をなぞっているだけで物足りない」という趣旨の批判意見が幾つかあることに気づきました。

2時間の尺の中で省略する登場人物が出てくるのは止むをえないと思いますが、私なりに残念だと思う削除された登場人物は、文芸部の部員花代子かもしれません。

彼女は、「普通の感性の」文芸部員としての語り部であった気がします。

風体が異型の作家、吉野桔梗の不在ももったいないと言えるかと思います。



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