つるりとした下着に焦がれていた

11歳で人より早く初潮を迎えたこの忌々しい女のからだは、比例して胸の膨らむのも早かった。幸運なことは、それほど大きくならずに成長が止まってくれたことだ。

でも、それでもやはり乳房の存在はわたしの中で異物だった。乳房はわたしにふさわしくない、正しくない、まちがった"できもの"のように感じていた。ふくらみはじめた日から、ずっと。

女子更衣室で交わされる、思春期の会話が嫌だった。はやくにふくらみ始めたわたしの乳房は、女の子たちの好奇の目に晒された。大きくていいなぁ、とか、私まだふくらんでなーいとか。反吐が出る。

その会話は、乳房と同じくらいに反吐が出そうな女子校から運良く退学が決まり、自由な校風の共学の学校に編入したあとも、続くこととなる。

胸のことを指摘されるのが嫌だったわたしは、それでも学校内で必死に積み上げた"キャラクター"を捨てる勇気もなく、隅で着替えることもできずに、大胆に服を脱ぎながら更衣室を横切るというむちゃくちゃなごまかし方をしていた。これだったら、キャラクターも崩れない。笑いも取れる。場が白けることもない。

そのころは母が選んだ下着を着けていた。本当は、UNIQLOなどで見かけるこざっぱりした装飾のない下着に憧れていた。ワイヤーの入っていない、フリルのついてない、胸の形を整えるレモン型パッドのない、肌触りのよい、刺繍のない、つるりとした下着を身につけたかった。

しかし「女の子らしさ」を妄信する母は、フリルがふんだんにあしらわれた薄ピンク色の、ワイヤー入りの、レモン型パッドの入った、"きちんとした"下着をわたしにあてがった。

"きちんとした"下着をつけないと、胸の形が崩れる、というのが母の言い分であった。それは正しいのだろう。わたしがふつうの乳房を望む、ふつうの女の子であったなら。

編入後、わたしの出立ちはみるみるうちに"少年"のようになっていった。母は明らかに、髪を短く切り、Tシャツとリーバイス501の切りっぱなしのショートパンツ、スニーカーで過ごすわたしにおびえ、戸惑っていたのだ。女の子の下着をあてがえば、わたしはいつか女の子に戻ると信じていたのだろう。

装飾のある下着は、嫌いだった。ナイロンの生地も、フリルも、レースも、刺繍も、肌触りが悪くてちくちくする。極端なまでに女性的なデザインは、自分のからだに身につけるだけで悪寒がした。なにより、大好きなTシャツを綺麗に着ることができない。

装飾は薄い綿の生地の下でみっともなく浮き、乳房を支えるワイヤーやパッドのせいで余計に大きく見え、オーバーサイズのTシャツを着ると太って見えた。だいすきな服をかわいく着こなせないことは、自尊心を削いでいった。

それでも母にNOと言えなかったのは、自分がふつうでないことを認めることができなかったからだ。女の子でないことが確定すれば、母の愛を失うことを知っていた。

だから母は、はたちごろからわたしが「女の子らしい」服を好むようになって、安堵していた。わたしも必死でそのころ、女の子になろうとしていた。フェミニンなもの、淡い色を選び、髪をボブにまで伸ばし、ふつうになる努力を重ねた。ふつうの自分を愛そうと努めた。

それでも結局は、女の子のわたしをわたしは好きになれなかった。鏡に映る女の子の服を着た女の子らしいピンク色の化粧をほどこした自分を、しっくりくると思ったことは一度もない。粘りに粘って23歳ごろまで"女の子"にしがみ続けたが、それはわたしには馴染まなかった。

大学院に上がるころから、わたしは10代のころのようにすこしずつ髪を短くし、カーハートのペインターパンツを履くようになっていった。そして、その服の下には、UNIQLOやウンナナクール、カルヴァンクラインで揃えたつるりとした下着を身につけるようになった。すこしずつすこしずつ、本来の自分に戻っていくその感覚は、わたしを酷く安堵させた。

ここちよかった。自分のすきな容姿になることは。わたしのいれものがわたしにふさわしいかたちを成すことは、これほどまでに充足感と安寧をもたらすのかと驚いた。

母の手前、長らく女の子の下着を捨てられずにいたのだが、結婚と同時にハサミで切り刻んですべて捨てた。今手元にあるのは、自分で選んだつるりとした下着だけだ。

ひとの容姿を、あなたのためを思って、とか、そういう独りよがりな言い訳で理想通りに整えようとしないで欲しかった。乳房を強調したくないのだというわたしの気持ちに、耳を傾けて欲しかった。

誰の顔色を伺うこともなく、自分で下着を選べるという、ただそれだけのことが、わたしにとっては死ぬほど幸福なのだ。わたしのからだは、わたしの思う美しいかたちにしたい。

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