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去年の雪(こぞのゆき)感想_大抵のことはささいなこと、でも感情の起伏には共感

「去年の雪」は江國香織による、2020年2月28日初版発行の小説。
いくつかの独立したエピソードが語られるオムニバス形式となり登場人物が多い(100人以上)。そのような事前情報を知らずに読みはじめたので最初は戸惑ったのだが、各人物の年代、性別、趣味嗜好がバラエティ豊かであるため、共感できるエピソードも多い。
こういうものだと思って読めば、各話サラッとしているので気楽に読める。
特にネタバレして問題になるような小説ではないと思うけど、以下ネタバレを含む感想などを。

<紹介文>
死んだ夫と交信する女性、妻の乳房に執着する夫、自分の死に気づいたタクシーの運転手…百人百様の人生を歩む登場人物たちが持つ意外な繋がりは一体?降り積もっては消えゆく、あなたの、そして誰かのお話。

余分なエピソードのあつまり

まず、オムニバス形式であるたため全体を通したストーリーや、ダイナミックな展開は無い。100人を超す様々な人物たちよる「感情の揺らぎ」を感じる瞬間の短いエピソードが紹介されるだけだ。
現代だけではなく時空を超えて、時には高度成長期の日本や、平安や江戸の頃の男女や猫や、霊魂となった死人など、立場も価値観も異なるそれらの存在が、好きなことや嫌なことなどの感情の揺らぎを言葉にしたり頭の中で語ったりする。

ダイナックな展開はないと書いたが、どのようなエピソードがあるかというと、「LINEの返信がこまめな男を好ましい」と思ったり、「夏レンコンや豆腐の白さ」に見とれたり、「乾燥機からだしたばかりのバスタオルのあたたかさ」に幸せを感じたりと他愛の無いものが多い。
この小説はそれらの短い、登場人物たちにとっての時間にしたら、ほんの数分~数十分程度のエピソードがつなぎ合わさっている。帯に「この本を読んでいる時、あなたはひとりじゃない」とあるのは、とにかく話しのバリエーションは盛り沢山なので、誰かしらのエピソードにふと共感できる瞬間があるからだろう。

江國香織の小説の魅力って、本筋とは直接関係無いけどその人の趣味嗜好や考え方が遠回しに伝わってくるような、余分なエピソードが挿し込まれており、それゆえに私はそれこそが想像力をかきたてられて楽しいと考えている。

作者本人による『ホリー・ガーデン』のあとがきにもこうある。

なぜだか昔から、余分なものが好きです。
<中略>
子供のころ理科と社会のどっちが得意だったのか、喫茶店で紅茶を注文することとコーヒーを注文することとどちらが多いのか、とか、そんなことにばかり興味をもってしまうということです。

大抵は他愛のないことが語られていて、冒頭いきなり命を落とす人の話しもあるが深刻な展開にはならない。人って誰だって死ぬものだから、それよりも「死後に霊魂が時空を超えて漂っていられたらどうなだろう」そんなニュアンス。

この小説はそのようなエピソードが合わさって全体像が曖昧なまま始まって、そのまま終わる。

時空を超えて交流する不思議な現象

また、この小説の中では少しだけ現実にはありえないような不思議な現象が起きて、平安時代、江戸時代、1970年代、現代と時空を超えて、話し声やシャボン玉、人間、カラスなどが時代を行き来して会話したり、ときには昔の人が未来から来たカラスによって運ばれた現代のアイテムを拾ったりする。

そうして昔の人がアイスの当たり棒を「"あたり"と焼き印を押された木製の棒」と例えたり、消しゴムを「ひんやりする四角い物体(ある種の覆がつけられており、それにはトンボの図が描かれている)」と描写されることで、もしも昔の人が現代のアイテムを見たらどう思うか、と想像する楽しさがある。
たしかに、昔の人が「マニキュアを見たらなんのための道具だと思うのか」という疑問は一種の問いかけのようで、それ自体はささやかだが想像すると少しだけ楽しい気持ちになれる。

価値観が変わると道具の持つ本来の役割に価値が無くなってしまうというのも興味深い。鉛筆が無ければ消しゴムは不要だし、爪を美しく飾ることに気付かなければマニキュアに価値はなく、容れ物がキレイだなと眺めるより他に使いようがなくなってしまう。

物事の多面性を改めて気付かせてくれる

この小説には一貫性のあるストーリーが展開するわけではないが、100人を超す登場人物たちは夫婦や友人や恋人であったりする。それらの人々がそれぞれの視点で、同じ事象のことを語ったりするのだが、その捉え方や考え方が人によって違うということがしばしば起きている。

ある夫婦の例を挙げる
遠藤拓也と由香の夫婦は結婚して15年になるがしょっちゅう喧嘩をしている。
拓也は喧嘩が不毛だと論理的に考えているので、由香が突っかかってきてもまともに相手にしないが、そんな拓也の態度に由香は自分が軽んじられていると捉えている。

対して、遠藤家の隣家に住む野村萌音は毎朝夫の健太を玄関の外まで見送るような妻だ。その様子を目にした拓也は「幸運な夫もいるのだ」と思う。
しかし、健太は浮気をしているのだ。しかも萌音はその事実に気づきながらも、夫の浮気よりも玄関脇に植えた姫りんごの木が死んだことの方を気にしていたりする。

夫婦

ひょっとすると、萌音が健太の浮気に無関心なのは、傷つく自分の心を認めてしまったら自身の心が耐えられなくなってしまうから、「姫りんごの木が気になっている」と自己防衛に強がっているだけなのかもしれないがそこまでは語られない。(こういう想像の余地を残した表現も江國香織の特徴だと思う)

至極当然のことだが、ある出来事、事象に人々が同時に居合わせたとしても人によって捉え方は違ってくるし、表面的には幸せであるように見えて、実際そうでも無かったりするのは現実でもよくあることだ。

そういう他人の心の中を覗きみて、「共感したり」「そういう考えもあるかも」と人々の多様性を感じられるのがこの小説の興味深いことなのだけど、そのバリエーションが男女だけでなく昔の人や幼児から老人まで、と幅広いのに感嘆する。よくぞこれだけの数の人物のことを考えて、集めたものだと。

ただし、登場人物があまりにも多すぎて、なおかつ同じ夫婦のエピソードであっても文章の順番が繋がらず、無関係な人のエピソードが挟み込まれていることもあるため、きちんと人物の名前を覚えながら読まないないと気付け無いことがあるのは辛いか。(電子書籍なら、登場人物が夫婦なのか否かを名前で検索できるのに、紙媒体でしか発売されていないのでで出来ない)
「夏レンコンや、豆腐、餅、それらに共通する白く美しいさま」に対して全く接点の無い人がそれぞれに言及するのだが、注意深く読んでいないと気付けずに流してしまう。

希薄になる交流だが、誰かの考えを排除しない

人同士が理解し合うことは困難だが、違う価値観の人同士であっても、お互いの価値を尊重すれば落とし所は見つけられる。
昨今言われている多様性ってそういうことだと考えているのだけど、現実にはそういう「他人のことを認める」という行為がSNSやWEB会議によるコミュニケーションが幅を利かせているせいで、疎遠または希薄になっている。

この小説は、そういうことを意図して書かれたものではないかもしれないけど、他人の価値を尊重するためには、人によって大切にしたいものの価値に違いがあることからスタートしなくてはいけなくて、そういうエピソードが時代の空気には合っている小説だと思う。

去年の雪


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