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恋は自由落下

「恋が落ちる」


 雫はいたずらに笑ってそう言う。恋に落ちている私は格好の笑いものだ。


「恋に落ちる、じゃないの?」
「いやあ澪のことを見てたら、恋が落ちるって感じかな」

 私の恋は落ちっぱなし。雫への想いは、両手から溢れて真っ逆さま。



 体育の授業。雫は今日も体育館の端っこで、走る皆の姿に決して交わらない。球技は自分には向いていないから。そう言いながら、実は汗をかきたくないだけなんじゃないだろうか。弾むバスケットボールより僅かに早く、私の汗が地面に落ちる。ぽたっ、という不細工な音。相手チームの一番後ろ。ディフェンスなんて言葉も知らない様な顔で雫はぼんやり立っている。雫はみんなより、ほんのちょっとだけ、美人。みんなよりちょっとだけ色素の薄い髪と瞳をしていて、肌が少し白い。嫌みでない程度に頭も良いし、クラスのみんながあまり聞かないような音楽を聴く。対して私はすごく普通。体育の授業なんて疲れるし汗を掻くのが嫌だし、だけどボールを持ったらつい力いっぱい床に弾ませたくなってしまう。私はすごく普通だ。そういうことを私が口にしようものなら雫は、世の中の大抵の人が普通なんじゃないかな、と話す。まるで古い映画のヒロインのような少し掠れた声までも、彼女をほんの少しだけ特別にしていると思う。


「落ちるってことは、重力が働いているんだ」


 体育館から出れば差すような昼の日差しが照り付ける。私はハンドタオルの隙間から、大して汗も搔いていない雫の横顔を盗み見る。長い睫毛が透明な光を反射して、私はついハンドタオルに顔を埋めた。購買に幾つかのアイスが揃っているのを見る度に、私は十六度目の夏が来たことを実感する。私と雫。二人でそれぞれアイスを買って、緩やかに染まっていく昼休みを味わう。


「つまり恋も自由落下しているんだね」


 中庭のベンチには生暖かい風が吹いていて、冷たいアイスクリームの一口目を宝物みたいに味わいながら雫は言う。ミルクたっぷりのとびきり甘いアイスクリームが、木製のスプーンの先から滴る。ぴちゃっ、という夏らしい音。その甘い香りは蝉の声に負けてすぐに溶けてなくなった。


「自由落下?」
「そう。恋も鉛直下向きに、真っすぐに落下するの」


 私のシャーベットはしゃりしゃりと音を鳴らして小さくなる。口の中には爽やかなソーダの味が広がっていくのに、私の頬はまだ微かな熱を帯びたままだ。雫の横顔は静かに上を向く。たった三階までしかない小さな校舎の、立ち入り禁止の屋上を見上げている。瞬きと共にゆらゆら揺れる彼女の睫毛。私は彼女の横顔をまた盗み見た。


「加速度的に引き付けられて、ぐんぐんスピードが上がっていって、誰にも止められなくなって、最終的に地面にぶつかって弾ける。自由落下だよ」


 校舎の前には背の低い深緑の生垣がぼうっと立っていて、夏の遠慮ない日差しはそれをものともしないで照っている。私と雫は小さくなった日陰に寄り添って座っている。日焼けした私の右腕と、雫のアイスクリームみたいな左腕が、僅かな距離を保って触れ合わない。思わず私も校舎の屋上を見上げた。真っ青な空にぽつりと浮かぶ三階建てのそれは、まるで飛び込み台のようにも見える。


「澪の恋は、ぐんぐんと加速していって、勢いよく相手にぶつかるんだ」


 私のアイスクリームも、スプーンの先から一滴、垂直落下した。じんわりと広がった染みは火照った地面に溶けていく。


「でもさ、ぶつかったら壊れちゃうじゃん」
「壊れないかもしれないよ? 案外、恋ってやつはもの凄く頑丈かもしれない」


 飛び込み台から緩やかに飛び出して、垂直に落下する私の恋。一秒後には九・八メートル毎秒。二秒後には十九・六メートル毎秒。ぐんぐんと加速して、気温と共に熱を帯びて、あらゆる景色を後ろに追い抜いて、僅かな空気抵抗にも抗って、私は自由落下しながらその落下地点だけを見つめている。だけど雫の元にはきっと、辿り着かない。

 蝉の声が教室にまでこだましているようで、私は思わずぼんやりとした午後を過ごしてしまう。うだるように暑い外の空気は窓から教室に足を延ばして、でも空調機の冷たい風に追い出されてしまう。午後の授業に集中できない。日焼けした肌に触れると、まだゆったりとした熱を帯びている。今日が終わればまた明日。明日が終わればまた来週。加速度的に日々は過ぎていき、急速に私たちは大人になってゆく。
 数式を解いた男子生徒はワイシャツを涼しそうに着崩している。一番前の席の男子は変なマスコットキャラのうちわを仰ぐ。膨張した夏はどんどんこの教室に広まっていって、数学は私を置いて次々と難易度を上げていく。ぼんやりとしているのはいつだって、私の手から零れ落ちた、私の心のせいだと思う。斜め前の雫は、みんなよりちょっとだけ涼し気な顔で座っている。いや本当は私の席から彼女の顔は見えないけれど、きっとそうに違いない。


「次、五十嵐」
「え?」


 ぼけっとしていた私の名前が、蝉の声より大きく響く。びっくりしてしまった私は思わずペンを落っことす。かしゃん、という未熟な音。にみんながこっちを振り返る。


「なんだ眠ってたのか?」


 私の顔は暑さではなく、恥ずかしさのせいで二次関数的に赤くなっていく。たくさんの視線に向けられたからでも、先生の呆れた表情のせいでもない。


「はい」
「あ、りがとう」


 私のペンを拾って微笑む、雫と目が合ってしまったからだ。
 この恋心も次第に大人になっていくのだろうか。そうしたらいつかは答えにたどり着くのかもしれない。それとも幼い子供のまま、暑さのうちに溶けていってしまうのだろうか。そんなちっぽけな私の恋は、雫に向かって真っ逆さまだ。

 今日からプールになった体育。水着に袖を通した私と、相変わらず見学の雫。私の腕には日焼けのあとがくっきりついて、雫は雪だるまみたいな体育着の白。雫くらい細くて華奢な体をちょっとだけ羨ましく思ったのを、今だけは水着を着ているせいにした。雫は太陽から逃げるような日陰の中で、さも涼し気に片手を振った。
 私は生ぬるい水にゆっくり入り込む。ちゃぷん、という不器用な音が鳴った。ゴーグルをかけると視界には、熱い太陽が降ってくる。一番端のコースで背泳ぎ。出来る限りの力で壁を蹴ると、私の体はゆるやかに前に進んでいく。両腕を大きく回しながら、水を掴んでは離していく。さんさんとした太陽は惜しげもなく照っている。水の中にいると重力を感じない。実際には浮力が働いているだけで、浮力は重力に比例するから、決して重力が無くなった訳じゃない。だけど私の体はプールの底には着かず、ただぷかぷかと浮いている。
 加速したこの気持ちを私はどこにもぶつけられずにいる。雫にこの気持ちをぶつけてしまえば、それは粉々に壊れてしまうのだろうか。あるいはぶつかった矢先に、じんわりと溶けてなくなってしまうのだろうか。雫が私に向けてくれる笑顔も、やがて変わっていってしまうのかもしれない。それはまだ大人にも子供でもない私には、手に負えないほどに恐ろしい。
 プールのちょうど真ん中に差し掛かる。スタートは遥か遠くて、ゴールもまだ先。まるで自由落下の途中、だなんて、本当は泳いでいる途中なのだけれど。


「澪」


 ゆっくりと泳いでいる私の上に、夏も太陽も差し置いて、雫の声が降ってきた。プールサイドに目をやると、体操服の雫がふらっと立っている。生ぬるい水に裸足を濡らして、暑さばかりの風に髪をなびかせている。直射日光に似合わない、雪解けみたいな笑顔。その瞬間だ。

 ざぷん、という心地いい音と共に、彼女はプールに、落下した。

「熱中症なんて初めてかも。どうりでくらくらするわけだよ」
「ずっとプールサイドいたの?暑いに決まってんじゃん」


 保健室の大きなベッドで、雫は細い腕をめいいっぱい広げて寝転んでいる。私のポカリスエットを雫はごくごくと飲んだ。おっきな一口でまるで自分のものみたいにごくごくと飲む。


「落下したら」
「うん」
「澪の気持ち、ちょっとは分かるかなーって思って」


 雫はいたずらに笑ってそう言う。恋に落ちている私は格好の笑いものだ。


「重力に引き付けられるっていうのは、裏を返せば、自分をちゃんと地面に繋いでくれているものがあるってことだよ」


 ポカリスエットは雫の喉を通過して、彼女の体に溶けてゆく。蝉の声も、外の暑さも、じめじめとした風も、全部差し置いて、雫はふへへと笑った。私は思わず少しだけ彼女から目線を逸らした。私の気持ちがほんのわずかでも彼女に伝わってしまえば、きっともう元の形には戻れない。加速度的に私と雫の関係が変わってしまう。

 落ちていく恋と私。自由落下に身を任せたまま動けない。急速に地面に引き付けられて、抗えない重力を全身に受けて、やがてぶつかってしまいそうだ。


「だいじょぶだいじょぶ」


 私の恋はきっともう間もなく雫にぶつかってしまって、全部砕けて散ってしまいそうだった。


「地面に落ちたら、染み込んでいくもんなんだぜ」


 雫はもう一口ポカリスエットを飲むと、それを私に返した。中身は既に半分以上無くなっていて、少しだけぬるくなっている。私も一口を飲んだ。暑さなんて何もかも全部忘れて、私の顔は熱くなる。


「分かったの?私の気持ちは」


 体の隅々に水分が染み入る。どきどきと火照った頬は、日焼けのせいにしてしまおう。


「どうかな~でもすごく気持ちよかったよ」


 もう一度雫と目が合う。思わず引き寄せられてしまう雫の微笑み。その頬もほんの少しだけ、赤くなって見えた気がした。

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