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梶原景時はなぜ戦ったのか

前回の「鎌倉殿…」では首桶が並ぶシーンから始まってカットされてしまった「梶原景時の変」。

私としてはもう少し丁寧に描いて欲しかったと、残念に思ってしまいました。

今回演じた中村獅童さんの景時は、それまでの印象を変えてしまうほどの紳士ぶりで、頼朝への忠誠心に溢れた名士ぶりだったのに、さぞかし潔い散り方をするだろうと、内心では楽しみにしていたからです。

始まった当初は景時の最期のシーンを楽しみにしていたのですが、なんともあっけない退場となり、ちょっと拍子抜けしてしまいました。

ならば、次回の「鎌倉殿…」が始まる前に、私が梶原景時の最期にまつわる謎を妄想したいと思います。



悪イメージはなぜ?

今までの景時のイメージは、いつも横柄な態度で、頼朝の権力下に身を置き、回りの御家人たちを重箱の隅をつつくような告げ口をして払い落としていくという、いやらしいものでした。

しかし、今回の「鎌倉殿…」での景時を見ていると、そうでもないかも?
と思わせます。

三谷さんの捉え方は、少なくとも100%悪人として描いていなかったように思います。

平家を打ち滅ぼした最大の功労者である源義経に対しても、本来の景時のイメージとしては、義経を妬んで陥れようとし、頼朝に言葉巧みに讒言ざんげんしたというものでしたが、大河では少し違った描き方でした。

景時は、義経の画期的な戦略に驚き、その才能を評価していたような様子だったのです。

過去の歴史ものではどうしても義経を花形スターとして位置付けるあまり、景時はその敵役として描かれてきました。

義経に対してだけではなく、回りの御家人のほんの些細な落ち度も見逃さず、巧みな鞭撻で告げ口し、まるで自分が正義であるかのようにふるまい、次々と糾弾して裁いていきました。

しかし、実際はどうだろう??

もしかしたら、非は義経はじめ、回りの御家人たちの方にあり、景時は本当に鎌倉幕府の事を思っての提訴だったのかもしれません。

いったい梶原景時という人物は善か悪かのどちらだったのでしょう?



抗弁しなかったのはなぜ?

結城朝光ゆうきともみつが、つい口に出してしまった「忠君は二君に仕えず」の言葉から、後を継いだ頼家への逆臣行為だと捉え、糾弾しようとすると、以前から景時に不満のある御家人66人による連判状と共に抗議され、逆に糾弾されてしまいます。

この辺りの逆転劇も、なんだか手際が良すぎて、シナリオ臭さを感じてしまうのは私だけでしょうか?

そして最大の謎は、その連判状を頼家から突きつけられて問いただされた時、あれだけ弁の立つ景時が、一切の抗弁をしなかったという事です。

その理由として3つの事が考えられます。
1,本当に下心があったから。
2,抗弁したがもみ消された。
3,御家人たち全ての意向を理解して抵抗は無駄だと悟った。

頭が切れて弁の立つ景時です。
もし彼が真の忠臣であったなら、幕府、あるいは目前の頼家の為にここで我慢しなければならなかった理由があったのかもしれません。



京を目指したはなぜ?

なぜ上洛しようとしたもかも、最大の謎です。
主な理由は次の2つが考えられます。

・朝廷の実力者・源通親みなもとのみちちかを頼り、再起するため
・甲斐源氏・武田信義の子・武田有義を将軍に奉じて反乱を計画した

本当にいずれかの理由が真実なら、景時は幕府の将来を考えて、何か水面下で動きつつある勢力に対して、何らかの対処を画策していた可能性があります。



近隣の武士らに討たれたのはなぜ?

前々回の最後のシーンで、義時(小栗旬)が息子の泰時(坂口健太郎)に景時追討のための兵を集めるよう指示していました。

しかし、実際には鎌倉からの追討軍が到着する前に、駿河国清見関(現:静岡市清水区)付近という、出発して間もない所で、居合わせた在郷の武士たちに討ち取れたとなっています。

梶原一族33人の首が街道に懸けられ、ここで滅亡となったのです。

これにも大きな疑問を感じ、どう考えても偶然にその辺りに居た武士たちに討たれたのは、話がうまく出来過ぎているような気がします。



黒幕の陰謀を知ってしまった?

今、ちょうどドラマでは、
2代将軍・頼家の乳母めのとである比企家と、
その弟の後の実朝さねとも乳母めのとである北条家と、
両家の露骨な対立関係が激化しています。

そして、北条時政(坂東 彌十郎)が、自分の孫である頼家を亡き者にして、実朝さねともを将軍にしようと画策しています。

もし、梶原景時が、頼家の真の忠臣だとしたら、
この陰謀を聞いたら、何としても阻止しようとしたでしょう。

いち早く北条氏の陰謀を知っていたとして、御家人の中でも実力者であった北条氏を叩くためには、さすがの景時も十分な証拠を揃えないと抗弁も出来なかったのではないか?

その証拠集めも兼ねて京へ向かい、再起に向けての何かしらの足掛かりを付けようと思い、上洛したのではないか?

そうなると、景時を討伐したという近隣の武士も、もしかしたら北条時政の指示が事前にあったのかもしれません。

「梶原景時の変」の一連の出来事に、北条時政が裏で糸を引いていたなら、今までの数々の謎も少し解明できるような気がします。

今に残る史書も「吾妻鏡」は北条氏が編纂したものなので、都合の悪いことは記さないのは当然の事です。
景時の悪イメージも、このためのネタ振りだったのだと頷けます。

その他の京都側の記録として残る史書の内容は以下の通りです。
・「玉葉ぎょくよう」九条兼実の日記ー景時は悪人扱い
・「愚管抄ぐかんしょう」天台宗僧侶・慈円ー景時を失った事は頼家の最失策
・「明月記めいげつき」藤原定家の日記ー世間が騒がしいが詳しくはわからない



最も必要な人物だったのでは?

その後の2代・頼家の没落を思うと、「愚管抄ぐかんしょう」の内容通り、景時を追放したのは最大の失策であり、取り返しのつかない事だったと推察されます。

しかし若い頼家にはわからない。
景時は口うるさいだけの旧臣でしかなく、表面的な事でしか判断できなかったのでしょう。

逆に北条氏は御家人たちの景時への心象を利用して、自分の利を目論んだのではないのか。

「梶原景時の変」は単にインテリの嫌われ者が殺されたという事件では済まされず、後に北条家が鎌倉幕府の執権を握る展開を見ると、黒幕は北条かと思えてしまいます。

この時点で景時の再起が実現していたら、滅亡していたのは北条氏の方だったかもしれません。

頼家にとって、いや鎌倉幕府にとって、梶原景時こそなくてはならない唯一無二の忠臣だった可能性が高いのです。


◇◇◇


それにしてもこの時代の東武士はこわい!!

これより後世ににも、武田信玄が父・信虎を追放したり、織田信長が、実弟・信行を殺害したり、肉親同士であっても殺し合いはありましたが、さすがに大切な家の子孫となる孫まで平気で殺害する事まではありません。

マフィアかヤクザか
まるで「ゴッドファーザー」か「仁義なき戦い」のリアル版ではないかと思ってしまう。

これからヤクザ抗争はどんどん激化します。

願わくば、これから粛正・暗殺される者たちをもう少し丁寧に描いて欲しいものです。

やはり、頼朝時代が長すぎて、メインの御家人たちの抗争が簡素化され、本末転倒にならないような展開を希望します。




【参考文献】
サライ
Yahooニュース
歴史人
Wikipedia




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