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無機質な絵を描くパリの日本人画家


繊細だけど冷たいデッサン画

藤田嗣治の絵との出会いは、私が画廊に勤めていた30年も前になるでしょうか?

私が当時見た絵に近い画像は見つける事はできなかったのですが、何でもないモノトーンのデッサン画に目が留まったのです。

いったい何が気になったのか、自分でもよくわからなかったのですが、他の作品を見ても、女性を描いた人物画なのに、なぜか少しも温もりは感じる事ができず、むしろ陶磁器のような固くて冷たい質感である事に戸惑ったのです。

それでいてデッサンは緻密で細かく、そのペン運びをなぞるように見入ってしまいました。

繊細ではあるのですが写実とは言い難い、ちょっとデフォルメしている画風や、無表情な表情になんとも無機質さを感じながらも惹かれてしまいました。


エコール・ド・パリで唯一の日本人


私が画廊にいたころは、確か「ツグジ」という名で習ったのですが、それはフランス人が発音しやすいために変えた読み方でした。
実際日本でもどちらも名乗る事があったようですが、正式には「ツグハル」と読みます。


出自は徳川家康のお膝元・駿河国

東京で生まれた藤田でしたが、その出自は、祖父が駿河国静岡県藤枝市の元田中藩士でした。

田中藩とは酒井家、堀田家、松平家、など幕閣で参政を行う名家が歴代藩主を務める藩で、享保時代に本多家が藩主となり明治元年に廃藩となるまで130年続いた藩なのです。

そして、父の藤田嗣章つぐあきらは軍医として最高位の陸軍軍医総監という名士の家でした。

そんな家の四男として生まれたのが嗣治つぐはるでした。

流行路線ではない画風

幼い頃より、暇さえあれば絵ばかり描いていた藤田だったので、森鴎外の薦めもあって、迷わず東京美術学校東京藝術大学美術学部西洋画科に入学します。

当時は黒田清輝の活躍により、モネのようなボヤッとした画風の印象派やありのままを描く写実派が人気だったため、それらとはまるで違う藤田の作風は不評で認められず、文展などでは全て落選します。

当然、卒業まで成績は振るわずでしたが、もてはやされている芸術は藤田の本意ではなく、失望の中、フランスへと渡ります。


エコール・ド・パリで出会った人々

パリの町外れのモンパルナスに住み着くのですが、そこは若手画家の巣窟で、モディリアーニパスキンピカソキスリング、らと知り合い、交友します。
彼らは多様性に富んだ作風を持つ自由奔放な画家たちで、総称してエコール・ド・パリと言われていました。

そこではキュビズムシュールレアリズム素朴派などの新しい画風がすでに誕生しており、その自由な芸術に魅せられて、今まで日本で強制的に叩き込まれてきた黒田清隆の印象派スタイルを完全放棄します。

薩摩さつま治郎八じろはちと知り合ったのもこの頃で、
彼はイギリスのオックスフォード大学出身のエリートであり、祖父は一代で木綿王として巨富を得た実業家だったため、大変な資産家でした。

「バロン薩摩」と呼ばれるほど、フランスでの浪費ぶりはすさまじく、
10年間で約600億円は使ったというほどでした。
その財力に、藤田は経済的に支えられたのです。

独自の画風を確立

日本での強制的な作風の呪縛から放たれた藤田は、独自の画風を模索し、藤田ならではの“白”を見つけます。
あの冷たいような無機質にさえ思える色です。

その真珠のような輝きを持つ乳白色の白は、藤田の描く面相筆による繊細な線描に映え、独特の透き通るような画風を確立しました。


唯一フランスで成功した日本人画家

第一次世界大戦後、日本からの送金が途絶え、一時は生活は困窮します。
しかし、終戦後の好景気に多くのパトロンがパリに集まることで、芸術家たちにとって豊かな時代が到来すると、藤田は毎年開催される展覧会・サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される事で、一気にその名は有名になります。

1925年、フランスからレジオン・ドヌール勲章
ベルギーからレオポルド勲章を贈られ、フランスでは知らぬ者はいないほどの有名な人気画家になっていました。

当時のモンパルナスにおいて、成功を収めた数少ない画家のひとりとなり、
1931年、南北アメリカでの個展開催も大きな賞賛で迎えられ、大成功を収めます。

さらに後年の1957年には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られて讃えらています。

日本には居場所がなかった

フランス人になった藤田

その後いったん日本に帰国した藤田でしたが、日中戦争や第二次世界大戦で従軍画家として戦争画を残したのですが、戦後になると、日本からは「戦争協力者」として非難を受け、連合国軍最高司令部GHQからは聴取を迫られ、一時は追われる立場となってしまいます。

そのような情勢下においての日本に嫌気がさして、再び渡仏し、1955年にフランス国籍を取得して帰化した後、日本国籍を抹消しまうのです。

1959年にはノートルダム大聖堂カトリック洗礼を受け、レオナール・フジタの名を得ました。


人生で5度の結婚

藤田は、人生で5度の結婚をしました。
うち3度はフランス人女性でしたが、
日本人の妻は最初の陸軍大将児玉源太郎の四女と、最後の25歳年下の「君代」です。

この君代は、1968年に病没した藤田の最期を看取り、生涯をかけて藤田の旧蔵作品を守り続けました。
それら藤田作品の大半はポーラ美術館ランス美術館に収蔵され、
東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈しています。


忘れていなかった日本人の心

日本に見切りをつけ、フランス人となった藤田でしたが、最後の妻・君江の秘蔵コレクションの中には、日本を思わせる作品も残されていました。

私にとってこれは、彼のイメージにはなかった作風なので驚きました。
どこか懐かしく、暖かみを感じる作品も生み出せるのだと感心したのです。

1935年の作という事は、モンパルナスで成功を収めて名声を得てからものなので、日本の心は忘れていなかったのだなと、どこかでホッとしました。

やはり彼は失望しながらも、心は日本人のままだったと、思えるのです。

日本では、狭い枠に押し込められて自由を奪われ、開花で聞きなかった藤田でしたが、その経緯があればこそ、オリジナリティに溢れた作風にたどり着けと思います。

芸術には枠があってはならないのです。




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