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盂蘭盆会に思う事

お盆の過ごし方は人それぞれだと思いますが、
我が家の場合は、一応12日ごろからお仏壇にお供え物や献花をして、ご先祖を迎え入れる準備をします。

和歌山へのお墓参りは義父母の命日のある5月に済ませているので、お盆には大阪の菩提寺「一心寺」へ参るべきなのですが、都会にあるためか大変な混雑なので敢えてお盆には参りません。
HPのライブカメラにはいつも参拝者が絶えない様子が見れます。

一応、我が家は浄土真宗なので、絶対にやらなければならない事は何もなく、ただご先祖や故人を思い出して手を合わせるだけのことなので、気持ち的にはいつもと変わりません。


今年は年始早々の訃報から先月の突然の訃報もあり、信心のない私ではありますが、ついお盆について書きたくなりました。

今年亡くした友人たち

今年は、大切な友人を2人も亡くしているので、例年に比べると思い入れは深いものがあります。

それぞれの信心に合わせて

今月初め、お正月に亡くなった友人の「初盆」のお参りで自宅にお伺しました。

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仏間に通されると、そこには立派な祭壇が設えてあり、その遺影の彼女の笑顔を見ると、会いたくて会いたくて、無性に寂しく感じられ、つくづく二度と会えないのだということを実感させられました。

「会いたいなぁ~」
と一言いうと、ご主人が、
「僕も会いたいわ。」
その短いやり取りが、いつまでも私の胸に残り、「死」とは会えないことなのだと深く刻まれ、みんな会いたいという気持ちが大きくなり、その場は彼女の話で盛り上がって良いお参りになったと思います。


そしてほんの先月、レキジョークルメンバーのヒデさんが他界したのはまだ生々しく胸に刻まれています。

ただ、こちらは葬儀は全くの無宗教で、僧侶や読経もなかったので、初盆も何もなく、ただ私の方で勝手に胸に思い出しているだけです。

私は信心は薄いだけに、基本的に個人の宗派や信心の度合いに合わせるようにしているのです。

旅立つ前に教えてくれた?

ただ、今思い起こすと不思議なことがありました。

ヒデさんと一時帰宅中に会った時、何かあった時のために娘さんのNちゃんに私のLINEを教えておいて欲しいと頼んでいたのですが、ヒデさんはそれをしてくれないまま逝ってしまったのです。

もちろんその時は私も彼女自身も最悪な事態など想定していなかったのですが、なぜか私はNちゃんと繋がっておくべきだと思って口に出したのですが、実現しないままでした。
その後も他愛もない事でLINEをくれたりして、私も安心してしまい、それきりのまま容体が急変して慌ただしく逝ってしまいました。

ある日、レキジョークルLINEにリンさんが、「Facebookにヒデさんの事があがってるかも?」という知らせが入り、さっそく確認してみると、別のお友達が明らかにヒデさんの死を知らせてくれていたのです。

しかもそのお友達であるUさんと私も繋がっている!
そういえば遠い昔、ヒデさんを通じてUさんと繋がったことを思い出し、さっそくメッセンジャーでやり取りしてみると、Uさんも私の事を知ってくれていたので、スムーズにやり取りをして詳細を知ることできました。

これはきっとヒデさんが知らせてくれた!

彼女は私に知らせるために、Uさんの投稿を見せてくれたのだと確信しました。

もしUさんの投稿がなかったら?
もしリンさんが気付いてくれなかったら?

ヒデさんの死を知らないまま過ごし、後になって大変な後悔に苛まれたことでしょう。

私は複数のSNSをしているものの、最近はめっきりnote記事を同時投稿するだけで何の交流もなく、Facebookもめったに見ることがなかったので、この偶然は、やはり魔訶不思議な現象と言えます。

ヒデさんがこういうカタチで教えてくれたとした思えないのです。


いまだに記事にできない妹の事

妹の事はいまだに詳細記事は書けません。
チラリと登場させることはあっても、一度もちゃんと記事にしたことはありません。

命日は2006年6月30日。享年41。
18年間、一度だって忘れたことはない。

診断されてちょうど3カ月で逝ってしまった妹の闘病生活は思い出すだけでも辛過ぎて、今でも胸が締め付けられてとても記事にすることなどできないのです。

闘病中は、常に胸に思いシコリを抱えながらも、一縷の望みだけは捨てず一心に願うことしかできなかったのは神や仏に対してではありません。
ただただ、病魔に、治療にあたってくれた医師に、願いを込めていたのです。

12時間以上にも及ぶ手術の間は、気持ちが落ち着かないので、一心不乱に「折り鶴」を折っていたのを思い出します。
結果的に願いは叶わなかったので、今では「折り鶴」を折るのも見るのも嫌になりました。

妹とは共通の趣味が多く日々の生活の中で思い出す事が多すぎて、その死を受け入れるまで、どれだけ多くの時間を要したことでしょう。
無意識に涙を流す日々がどれだけ続いたことでしょう。

これを書いている今もまた目の前が霞んでしまいます。

私の天命はいつなのかはわからないけれど、その日が訪れるまで、ずっと胸に抱いたまま過ごしてゆくのだと思います。

こういう悲しみを繰り返す事で、人は死ぬ時にとてつもない大きなものを悟れるのかもしれません。


盂蘭盆会うらぼんえの歴史と由来

さて、いわゆる「お盆」の正式名称を盂蘭盆会うらぼんえと言いますが、その起源はいつからどこで始まったのでしょう。

起源は中国の祖先祭祀であり、それに仏教的な思想が加わり生まれた習俗であると言われています。

日本書記によると日本に伝わったのは西暦606年、推古天皇が最初に執り行ったものだと伝わりますが、それが盂蘭盆会うらぼんえだと確証はできていません。
しかし、657年に斉明天皇が飛鳥寺で盂蘭盆会を催したことが明記され、659年には盂蘭盆経らぼんぎょうを講じて父母の恩に報いたとの記録があります。

なんとこの風習も1400年の歴史があるのですね。

それ以後、宮中の公式行事として執り行われていましたが、実際に庶民の仏事として定着したのは、江戸時代だとも言われています。

盂蘭盆会うらぼんえの意味は「逆さ吊り」

「うらぼんえ」の元々の意味を調べると、

サンスクリット語の「ウランバナ」の音訳で、倒懸(とうけん)の意。地獄の世界で逆さ吊りにされる死者への供養

コトバンク

なんと直訳したら「逆さ吊り」とは。

これには謂れがあり、釈迦の十大弟子の一人である目連もくれんが母親が逆さ吊りにされ、まさに餓鬼道へ落ちようとするのを救うには、母親だけではなく全ての人を救う事だと悟ったことで、母親も助ける事ができたというものです。

この伝承から、死者をあの世でのつらい状況から救うための言葉が「ウラバンナ」で、それがなまって「ウラボンエ」と発音されるようになったようです。

そういえば、信長が安土城を盂蘭盆会に、安土山全体を松明や篝火でライトアップした時、まだ庶民には浸透していなかっただけにさぞかし皆は驚いた事でしょう。
信長はいったいこの行事の事をいったいどこから仕入れたのでしょう。
中国通だったから、そこから得た情報だったのか?

どちらにしてもこれは当時としてはかなり斬新な行事だったに違いありません。
この翌年に、「本能寺の変」で信長の人生も終わるのだと思うと、これもまた何か予感めいたもがあったのかもしれません。

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さて、信心のない上に、まだ死んだ事もない私なので、宗教の説く世界がどこまでが真実かはわかりません。

しかし、故人を思い出す事に宗教や宗派、作法などは不要だと思います。
みなさん銘々に胸に思い、素直に偲ぶことが供養になるのです。





※トップ画像は2024年6月17日「薬師寺」にて撮影

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