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今さら知った「四天王寺」の事

本来の読書はそっちのけで、相変わらず大阪の郷土史「あしたづ」をちびちびと読んでいる毎日です。

と言うのも、サークル仲間のチコさんが、お父様が郷土史家であられるので、実家にある「あしたづ」のストックをごっそり私に貸してくれたのです。

図書館で借りたら2週間という期限があるので、気が落ち着かないので助かります。

いや、普通の小説であるなら、十分読める。下手したら一日で読めてしまって物足りないぐらいなのだが、
これに関しては、ルビがなかったり、歴史上の人物の名が説明もなく途中で変わったりと、ものすごく玄人向けなので、さすがの私も読んでいて詰まってしまう箇所があったりするのです。

スマホ片手にその度に検索しながら読み進めるので、時間がかかります。

その十五号の「俊徳道・十三街道」の中で、気になる記事を見つけて、私の中で衝撃を受けた事があるので、ここに記しておきます。

しかしながら、この元記事の主題である「俊徳道・十三街道」は、今回の主題から外れるので割愛させていただきます。


紀行中に見つけた裏テーマ「秦氏はたうじ」について

秦氏はたうじについて、初めて着目したのは京都・嵐山にある「松尾大社」を訪れた時です。

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そこは松尾山を背後に頂く由緒正しい格式の高い神社です。

渡来系の民族である秦氏はたうじは、五世紀の頃よりこの地で来住し、その松尾山を一族の総氏神として祀ったのがこの松尾大社の始まりだというのです。

その正体は秦の始皇帝の子孫か、朝鮮新羅の豪族か、結局は不明ではあるのですが、高度で新しい文化をもってこの地方の開拓に貢献したとの事なのです。

聖徳太子の右腕として国家形成にも手腕をふるい、それだけではなく、日本の宗教や能や雅楽、茶道などの文化芸能、織物などの産業に至るまであらゆる足跡を残しているのです。

その名は地名にも残されていて、有名なところでは、例えば京都・映画村のある「太秦うずまさも秦氏が痕跡を残した土地であります。

私の著書「奥の枝道 大阪編」でたっぷり書かせていただきましたが、執筆にあたり色々調べていると、大阪各地にもその痕跡は何カ所もあり、「太秦」や「秦町」という地名もあるのです。

また秦氏見つけた!と小躍りするほど嬉しかったのは、言うまでもありません。

大阪と京都には間違いなくその痕跡は残っていて、畿内全般だけに活躍の跡はあるのだろうとは思っていました。
しかし、調べる中でその活躍の範囲は、播磨(兵庫県)から琵琶湖沿いの近江(滋賀県)にまで及ぶという記述も見つけて、思わず唸ってしまいました。

一体それはどれだけの範囲に及ぶのだろう。

秦氏はたうじとはどんな民族なのだろう。

それらは私の中でどんどん膨らみ、各地を訪れた時にその痕跡を見つけると、それらのカケラを拾い集め、つなぎ合わせていく事が、密かで楽しみな課題となりました。



四天王寺も秦氏が建てた?!

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※画像はグーグルマップ・ストリートビューのものです。↑ ↑ ↑

先日投稿させていただいた「一心寺」のすぐ近くにあり、とても交通量の多い賑やかなところに位置しています。

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四天王寺は、大阪というより日本を代表する超有名な寺であり、日本初の官寺でもあります。

聖徳太子が、古墳時代の有力豪族で廃仏派でもあった物部守屋もののべのもりやとの戦いに勝利した後、推古天皇元年(593)に建立したとの事ですから、今から1400年以上も前の創建なのです。

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※上記画像引用元サイト ↓ ↓ ↓ 


「あしたづ」によると、表向きは戦勝祈願としての建立ですが、物部守屋もののべのもりやの怨霊封じの寺であるとの説もあるそうです。

かつては守屋堂というものが存在していたそうなのですが、現在はホームページを探してもそのようなお堂はありません。

その代わり太子殿の東側に物部守屋もののべのもりやほこらが小さくひっそりとあるのです。(境内マップの赤丸印)

四天王寺は創建当時、玉造にあった守屋家の旧宅位置にあったのではないかと推定され、そこは「守屋の宮」と呼ばれ、それが現在の大阪城公園を囲む駅の一つでもある「森之宮駅」の名の由来だともいいます。

そして現在の四天王寺の地は「あらはか」と言われる古墳であり、今もある近くの茶臼山古墳とは別のものがこの地あったそうなのです。

中世において、寺社の境内や周辺が発展するのを「境内都市」というのですが、大阪においてはすみよっさんこと「住吉大社」と「四天王寺」です。

面白い事に四天王寺には、寺門を閉める風習がなく、身分を問わず誰でも境内は出入り自由なので、乞食や芸能者まで集まり、住み着いた者まで存在して賑やかに発展してきました。

そこで、秦氏はたうじです。

先ほど述べたように、秦氏は聖徳太子と深く関り、あらゆる芸能文化の発展にも貢献したという事を考慮すると、四天王寺の建立にも深く関わっていた可能性が高いのです。

日本における能の一流派の一つ「今春座こんばるざ」は始祖が秦氏であると名乗っています。

うわ~!ここにも見つけた!

と「あしたづ」を読んでほくそ笑んでしまったのです。



灯台もと暗しだった「四天王寺」


秦氏が聖徳太子のブレーンとして活躍していたと知った時、どうしてピンと来なかったのか!といまさらながら、自分のボッサリぶりにはあきれてしまいます。

というのも、私は近くの一心寺にしょっちゅう来ているだけでなく、四天王寺内の西門すぐの所にある、四天王寺高校の出身なのです。
しっかり3年間、この寺に通い、周辺の雰囲気を肌で感じて過ごしていたというのに知らなかった。

若い上に、無知というものは恐ろしいもので、高校生の当時は、「寺の高校なんて地味過ぎるわ。般若心経はもうええて~。」と思い、仏教行事にあくびが出る毎日で、あろうことかその歴史の深さに何も共感できなかったのです。

部活(バスケット部)の練習で毎日境内を何周もランニングまでしていて、物部もののべほこらはおろか太師堂なるものがどれかも注視する事なく、無意識に走っていました。

何たるバカ!
アホ過ぎてびっくるするわ!

それに、3年生の秋だったと思いますが、境内の宿坊に一泊して、最後の「儀式」までしていただいているのです。

今となってもその宿坊の名も儀式名も思い出せず、検索しても出てこないので、はっきりとはわからないのですが、記憶の片隅に断片的に確かに映像は残っているのです。

精進料理を食べた事
座禅を組まされて、警策けいさくという棒で肩を叩かれた友達が痛さで涙ぐんでいた事。
・宿坊の部屋に面したがあった事。
・夜になって暗い部屋でろうそくだけの灯の下で、儀式が始まり、色とりどりの法衣と袈裟を身に付けた僧侶が立ち並んでいた事
・その時に各自丁子ちょうじ?の実を口に含み、一人ずつ仏前に手を合わせた事。

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もしかしたら、ものすごく貴重な体験をしているはずなのに、ちゃんと憶えていないとは、本当に情けない事です。

そしてその後に、お釈迦様から始まり、自分の名前まで続く系図をいただいたのです。(これも絶対どこかにあるはずなのに、探しても出てこない)

そして、ずいぶん後になって、あの薄気味悪い儀式は「洗礼」だったのかと思い至ったわけです。

自分が密かに夢中になっている秦氏の痕跡が、自分の母校にもあった事は衝撃過ぎる「灯台下暗し」という事柄で、そして、貴重な体験はまさしく「豚に真珠」というものです。


歴史を本当の意味で知るには、その人自体にも歴史が必要であり、悠久の世のことわりを知る頃には、すでに人生は終盤になっていると実感してしまいました。



「あしたづ」関連の記事はこちらです。
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