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道長、チャンス到来だ!!

思い起こせば、初回の道兼(玉置玲央)の悪の所業で、一気に心を掴まれた人がほとんどではないでしょうか?
それだけインパクトのある展開でした。

その後もさんざん悪態をつくシーンがあり、父の兼家の命令とはいえ、裏家業に手を染めるという藤原家の闇だった道兼でした。

よくよく考えてみれば、まひろの母を道兼が刺し殺すこと自体、脚本家・大石さんの創作であり、その悪行は死ぬ間際の道兼の聖人化を際立たせる前振りだったのかと、今更ながら気づかされました。

時代考証者のコラム、NHKの「をしへて!倉本一弘さん」で、意外な彼の人となりが見えてきます。
・実資(ロバート秋山)や行成(渡辺大知)から評価されている
詮子あきこ(吉田羊)との仲は良かった
・部下に慕われていた(源頼光・頼信兄弟など)

詳細はリンク先を読んでいただければわかりますが、私個人の感想としては、実直で生真面目な一面を持ち、横暴で粗野な人間ではなかったと感じます。
その道兼の悪イメージは「大鏡」「栄花物語」によるもであり、そもそも道長びいきに書かれているので、7日天下に終わった道兼はその引き立て役として引用されたようなのです。
ようするに”死人に口なし”なので、面白おかしくするために悪人にされていた感じです。

しかしながら、あの道兼の変化はどうでしょう?
結局、父・兼家の呪縛が解けて本来の彼は聖人だったということか?

いずれにしても疫病で倒れなかったら道兼の関白時代は、みんなに支えられて長く続いていたことが想像されます。
そうなれば、道長の栄華などなかったでしょうし、人の人生ほどわからないものはありません。


悲田院ひでんいんについて

話は遡りますが第16回・「華の影」でまひろがかつての教え子・たねの救援に向かった「悲田院」で偶然に道長たちと遭遇するシーンがありました。
この「悲田院」こそ実は日本最古の福祉施設なのです。

大阪・四天王寺で発足?

大阪には「悲田院町」という住所もあり、その名を用いた福祉施設や病院なども多いので、大河にこの名が登場したときはハッとしました。

余談ですが、
悲田院を発音するとき、「ひでいん」と言い、真ん中の「ん」を省いてしまう。
だから文章にする時、「ひでいん」では変換できないので「あれ?」と思ってしまいました。
正しい読みは「ひでんいん」でしたね💦

検索してみると「四天王寺」の四箇院制度に行きつきました。
四箇院しかいんを要約すると、
敬田院きょうでんいんー寺院
施薬院せやくいんー薬局
療病院りょうびょういんー病院
悲田院ひでんいんー社会福祉施設

なんとこれらは「四天王寺」創建時の593年に、聖徳太子が建立したと言いますから、驚くことに1430年も前からあった事になります。
ですからこの道長の時代にはすでに400年も経つ制度だったのです。

とはいえ、これは伝承に過ぎず、歴史上確認できるのは養老7年(723)に奈良の「興福寺」に創建されたもののようです。

聖武天皇とともに仏教に深く帰依した光明皇后により悲田院が皇后宮職に設置されており、皇后が直々に関わった重みのある施設でした。

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京の東西に設けられた悲田院

やがて平安遷都と同時に悲田院は京の東西に設けられ、おそらく道兼、道長、まひろたちが救援に訪れたのは鴨川河畔にあった「東の悲田院」と思われます。

道隆(井浦新)が道長の訴えも聞かずに冷たくあしらっていたことでも想像できますが、悲田院は官営施設でありながら、常に後回しにされて給付が滞り、疫病が蔓延すればたちまち運営困難な状態となっていました。
ドラマにあったように運ばれた患者もなんの処置もできずに次々と亡くなくなるという状態だったのです。

全ての貴族が道隆のように無関心だったかと言えばそうではなく、実際に個人的に支援していた貴族もいたようで、道兼や道長もそうですが、実資(ロバート秋山)も支援したようです。

だいたい一条天皇からも心配の言葉がありましたね。
自分たちの権力闘争にしか眼中ない者もいれば、本当に少数ですが、支援する貴族もいたのは、ギリギリですが安堵できます。

大阪の四天王寺で生まれたこの制度は半ば伝説になっていますが、実際に現在において、敬田院は「宗教法人 和宗総本山四天王寺」「学校法人 四天王寺学園」に、
施薬院、療病院、悲田院は「社会福祉法人 四天王寺福祉事業団」に受け継がれているのをみると、やはりはこれらの精神は確実に受け継がれていて、伝説にとどまらず史実だったのかも。

実際、私は四天王寺学園の卒業生です。
その割には何も知らなかったのが情けない💦


生まれたことの意味

第17回「うつろい」で、悲田院で病に倒れたまひろを道長が一晩中看病してくれたことを知りました。

そこでまひろが学んでいたのが荘子の「胡蝶之夢こちょうのゆめでした。

荘子は夢の中で自分が蝶になり、花の上で遊んでいたが、夢からさめてみると、自分が夢で蝶になったのか、蝶が自分になっていたのかわからなくて驚いたという。

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悲田院で道長と会ったのは夢かうつつか。
また、数年前の道長との一夜も夢だったのか。
道長への思いを断ち切らねばならない身分制度や女性の立場の低さなど、世の中の矛盾に直面して様々な思いが去来したのではないか。

そんな風に感じたからこそ、まひろは「胡蝶之夢」を書き写しながら自問していたのでしょう。
道長も自分なりにできる事をしていると知り、自分がこの世に生まれた意味とは「書くこと」なのかと、漠然と気付き始めた瞬間でした。

そもそも、荘子の根底の思想は、相対的な概念を否定し、超越して無になれば、万物はみな同じだというもので、この幻想的な詩の中にもその思いが詰まっているところが、なんとも憎らしい演出でした。

まひろは自分の文章の力に初めて気付き「書く」という現実的な事に着目し始めたのです。


道長はいつ化ける?

この期に及んでもまだ化けの皮が剥がれない道長に、少々イラついている私がいます。
道兼までが急逝した今、「あなたしかいない!」と、
詮子あきこ(吉田羊)が声を荒げるのも無理のない事なのです。
そんな風に涼しくキレイ事を言っていられるのはいつまでなのでしょう。

一族の災いを一身に背負う定子さだこ

亡父に続いて兄の伊周これちか(三浦翔平)にまでも「皇子を産め!」と脅されるように迫られた定子。

そんな簡単に産めるか!💢

世の中の全女性から見ると顰蹙ひんしゅく極まりない身勝手さです。

これだけでも定子に同情するのですが、さらにこの伊周とその弟・隆家(竜星涼)が長徳の変を起こし、一条天皇に配流させられてしまうのです。
(多分、次週ですので詳細は割愛します。)

その兄弟たちは、あろうことか天皇の命令にも背いて、一時は定子の下に逃げ込むという卑怯な手段を使ったため、定子は「匿った」とされ、公卿たちにも嫌煙されるようになるのです。

入内した頃は実家の中関白家(藤原道隆一家)は栄華を極め、この先も安泰だと信じて疑わなかったのに、父という強固な後ろ盾を失くしたばかりか、実家そのものまで排斥されて無くなってしまいます。

定子にとっては何もしていないのに急転直下したのは本当に可哀そうで、そのあたりも今後の見どころです。

まだ他にも定子の不幸はありますが、
それはまた後日。


道隆のナイスアシストに便乗する

長兄・道隆の身内びいきの強引な政策は、結果的に道長に逆利用されることになります。
それは以下の2点です。
1.三后の座が埋まっているのに、娘を「中宮」とした
2.詮子を「女院にょいん」とした

前回の通り、道隆が自分の権力の為にした手段だったのですが、道長がこれを利用しないわけがない。

しかも、あれだけ娘の彰子あきこには入内せずに平凡な幸せを築いてほしいと言いながら、どのような経緯で入内させるにいたるのか?
すでに天皇にとって最愛の后・定子がいるにもかかわらずです。

そして、道長にとっては、尚も一条天皇の寵愛を受け続けている定子は邪魔な存在になるため、様々に仕掛けをしてゆくのです。
公卿たちも道長の顔色を窺うようになり、そのあたりの所業は父の兼家を彷彿とさせるもののはずです。

道長にとって詮子に上皇に準じるほどの「女院にょいん」という権力を与えられたことは、かなり大きい。
小さい頃から仲良しだった姉弟なので、放っておいても道長の味方であるのは間違いないのですから。

自分の都合だけで強引に撒いた道隆の種がをようやく成長し、道長が全て収穫しようと畑を横取りしていくのです。
道隆がしたことは、皮肉にも道長への好アシストになり、最後にシュートを打つのは道長なのです。

だからこそ、いつまでも優しいおじさんではいられないはずなのに、道長はそろそろ変貌して兄の道隆一家を蹴落としてゆくはずなのですが、そのあたりはどう描くのだろう??


<最後に一言>

清少納言(ファーストサマーウイカ)の十二単が艶やかですね~!
いつも見とれてしまいます。
定子の着物よりはるかに豪華なのは、この時代「十二単」は女官たちの仕事着であり、主人(定子)への最高の儀礼を示していた着物だったのです。

そのかわり主の立場である定子は、基本的に我が家なので「普段着」だったそうです。

来週はまひろも十二単を着るようなので楽しみです。



【参考】
美術展ナビ
四天王寺学園に受け継がれる理念





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