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『人はなぜ「美しい」がわかるのか』橋本治

この本は「美しいとはなにか」の正解を説くものではありません。橋本治は「各人が“美しい”と感じたそのことが、各人の知る“美しさ”の基礎となるべき」で、「“美しさ”とは、各人がそれぞれに創り上げるべきもの」と書きます。重要なのは、無数にある美しさの中から、自分にとっての「美しい」を発見してしまう能力です。

人一般は“美しい”がわかるのに、“美しい”がわからない人がいます。

「理性的で合理的で意志的で主体的であることが好きで、それゆえに『美しい』が分からない人というのは、『自分の都合だけ分かって、相手の都合が理解出来ない』という、いたって哀しい人なのです。」

「“美しい”には重大な役割があります。それは、『自分とは直接に関わりのない他者』を発見することです。直接的には関係がない─しかし、それは存在する。『関係がない』という保留ぐるみ、『存在する他者』を容認し、肯定してしまう言葉─それが『美しい』なのです。もちろん、この『他者』には、『ゴキブリ』とか『小石』といったものまで含まれます。」

では、自分に直接には関係ないものを美しいと感じさせる背景には何があるのでしょうか。

「自分の周りにある自分とは直接に関係のないものを『美しい』と思わせるような、リラックスによる思考停止を可能にするのは、『人間関係』だけです。『人間関係』には、わずらわしいとかイライラさせるという側面もあって、だからこそ、『一人になるとほっとする』ということもあります。でもそれは、『人間関係』のせいではありません。『いやだと思う人間関係』のせいです。『いやだと思う人間関係』から離れて一人になると、自分の知っている『いやではない人間関係』を自由に想起することが出来るから、それでほっとするのです。だから、『いやではない人間関係』を想起出来ない人は、一人になっても、イライラしたり不安になったりして落ち着きません。つまり、人間を落ち着かせてくれるのは『人間関係』なのです。」

物や動物に対して美しいと感じるとき、人はある技法を使っています。

「『擬人法』が、人の中に『美しい』という感情を生む、ということです。『美しい』という感情が、『親密な感情』であることは、言うまでもないでしょう。だからこそ人は、自分とは直接に関係のない自然の存在に対して、『美しい』と思うのです。『美しい』と思い、そこから親密な感情をスタートさせる─それはすなわち『擬人法』の誕生です。『美しい』が『人間関係』に由来しているからこそ、人は『擬人法』という発想を持つのです。
『美しい』という感情は、そこにあるものを『ある』と認識させる感情です。『美しい』と思わなければ、そこにあるものは『なくてもいいもの』なのです。(中略)
自分にとって意味のあるものを見つけ出した時、『ある』と思う感情は『美しい』と一つになります。『美しい』という感情は、そこにあるものを『ある』と認識させる感情で、『ある』ということに意味があると思うのは、すなわち『人間関係の芽』です。『美しい』は、『人間関係に由来する感情』で、『人間関係の必要』を感じない人にとっては、『美しい』もまた不要になるのです。」

人の美的感受性を育てるのは「豊かな人間関係」だと言いたいのかといえば、そうではありません。「豊かな人間関係の欠落」でもまだ不十分で、「豊かな人間関係の“欠落に気づくこと”が人の美的感受性を育てる」と言います。

橋本の説によれば、枕草子などが書かれた王朝の時代も北斎や広重の浮世絵にも「夕焼け」を美しいとする意識はありません。一日が終わることを表す夕焼けより、一日が始まる朝焼けを好んでいます。
それは、一日を満足させて終わらせることができなかったからではないか。
また、徒然草の兼好法師はついに「自分なりの美」を発見するところまで届きませんでした。なぜか。「寂しいのはやだな」という実感がなかったからだと言います。

「《徒然草》の作者は、『寂しい』とか『つまんない』は分かっても、『寂しくない』がよくわからないのです。『寂しくない=幸福』が分かっていれば、『寂しい=いやだ』で、なんとかしようとします。なんとかする前に、自分の前にあって輝いているものに、『寂しくない=幸福=美しい』という発見をします。その発見をして幸福になって、その発見をする自分の孤独を知ります。つまり、『美しい』と思うことは、『幸福を欠落させている自分の現状をなんとかしよう』と思う、前向きのエネルギーになるのです。」

『美しい』というのは、幸福でもありえて、しかし不幸でもありえるような人間が、自分の『孤独』というものを核に据えて、格闘しながら捕まえて行くものでもあります

この本を読んで私は、生きる希望を感じました。人生は生きてるだけでつらくて、失うものも多いもの。幸せに生きていても、大事な人や健康を失ったりします。でも「美しい」と実感できる機会は生きている時間だけ増え、深まっていくのです。私に“美しい”と感じさせる背景には、人生のどこかで経験した幸福があって、心や体に刻まれています。失うものの多い人生のなかで、その経験は奪われることはないと教えてもらったように思います。“美しい”は、現在・過去・未来を同時に感じさせるような豊かな経験のことなのです。


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