この本は「美しいとはなにか」の正解を説くものではありません。橋本治は「各人が“美しい”と感じたそのことが、各人の知る“美しさ”の基礎となるべき」で、「“美しさ”とは、各人がそれぞれに創り上げるべきもの」と書きます。重要なのは、無数にある美しさの中から、自分にとっての「美しい」を発見してしまう能力です。
人一般は“美しい”がわかるのに、“美しい”がわからない人がいます。
では、自分に直接には関係ないものを美しいと感じさせる背景には何があるのでしょうか。
物や動物に対して美しいと感じるとき、人はある技法を使っています。
人の美的感受性を育てるのは「豊かな人間関係」だと言いたいのかといえば、そうではありません。「豊かな人間関係の欠落」でもまだ不十分で、「豊かな人間関係の“欠落に気づくこと”が人の美的感受性を育てる」と言います。
橋本の説によれば、枕草子などが書かれた王朝の時代も北斎や広重の浮世絵にも「夕焼け」を美しいとする意識はありません。一日が終わることを表す夕焼けより、一日が始まる朝焼けを好んでいます。
それは、一日を満足させて終わらせることができなかったからではないか。
また、徒然草の兼好法師はついに「自分なりの美」を発見するところまで届きませんでした。なぜか。「寂しいのはやだな」という実感がなかったからだと言います。
この本を読んで私は、生きる希望を感じました。人生は生きてるだけでつらくて、失うものも多いもの。幸せに生きていても、大事な人や健康を失ったりします。でも「美しい」と実感できる機会は生きている時間だけ増え、深まっていくのです。私に“美しい”と感じさせる背景には、人生のどこかで経験した幸福があって、心や体に刻まれています。失うものの多い人生のなかで、その経験は奪われることはないと教えてもらったように思います。“美しい”は、現在・過去・未来を同時に感じさせるような豊かな経験のことなのです。