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当たり前はやめていい

梅雨が明け、日に日に蝉の声が力強くなってきた。
いよいよというか、とうとうというべきか、本気の本物の容赦ない夏がやってくる。

灼熱の太陽とアスファルトの熱気で上下から焼かれるような真夏の屋外を歩くたびに、「やめてよかった」と再確認することがある。数年前に手放した、それまで全く疑うことなく「やるべき」と考えていたこと。いざ省いてみると、少なくとも私にとっては、拍子抜けするほど必要のないものだった。

それは、夏の日差しでみるみる溶けてくずれてしまうもの。
かき氷ではない。
ファンデーションだ。

きっかけは、以前もnoteで書いた通り、メイクアップアーティスト・草場妙子さんの著書『TODAY'S MAKE UP』を読んだことだった。

それまで私は、味噌汁の出汁やカレーの玉ねぎと同じくらい、メイクにファンデーションは必須の工程だと思い込んでいた。何はなくとも、これを塗らなければ次のステップに進めない。夏ともなれば、日焼け止めにメイク下地、ファンデーション、コンシーラーと、幾重にも肌に何かしら塗らなければならないし、くずれないようパウダーもはたかなければならない。そうして塗り重ねたベースメイクも、盛夏の炎天下のもとではかなしいほど、無力だ。あっという間にベタベタと不快感に変わり、テカり、ハンカチや帽子の裏地にもファンデーションが付く。

だけど、草場さんは

顔全体にファンデーションを塗っている人は、コンシーラーでひとつのシミを隠すことで、ファンデーションを塗る必要がなくなるかもしれない。

『TODAY'S MAKE UP』アノニマ・スタジオ

と言い切った。

当たり前を疑うことなく、顔全体にファンデーションを塗っていた私にとって「塗らなくてもいい」ということは目からうろこだった。突然ズル休みを許された子どものように「ほんとうに? ほんとうにいいの?」と何度も確認したくなった。

と同時に、光がさした。
私がメイクを億劫に感じる一番大きな要因が、ファンデーションだったからだ。

メイクアップベースに気になるところだけコンシーラーをちょいちょいっと塗る。以上。
やってみると、このシンプルさと気軽さは、抜群に自分に合っていた。

猛暑の屋外で、くずれもテカリも気にしなくていい。日焼けが気になるときは塗り直すこともできる。ファンデーションはくすみも毛穴もカバーしてくれるけど、皮膚呼吸できなくなるような感覚がどうにも苦手だった。ノーファンデの軽やかさを知ってしまったら、もう戻れない。陶器のようになめらかな肌より、アラが隠れてなくても心地よい肌の方がずっといい。

続けられているのは、メイクが簡単になったからというだけではない。
一番の理由はきっと、ノーファンデの自分を好きになれたからだ。

42歳を過ぎて、小ジワもシミもそばかすも増えた。でも、それが多少見えているくらいの方が自然で、隙があって悪くないと思えた。私が目標にしている50代、60代の素敵な女性は、「その年齢には見えない」ほど美しいひとではない。自然体で、年相応の落ち着きと寛容さがあり、ヘルシーで朗らかなひとだ。なりたい年上の女性像が、加齢する自分の肌と重なった。

これからも着々と、老いは刻み込まれていくだろう。その時に、素顔とメイクのギャップが少ない年齢の重ね方をしたい。年齢に抗うのではなく、「もういいや」とあきらめるでもない。今の自分を客観的に見つめ、きちんとケアする。自分の肌や身体の変化に「関心を持ち続ける」ことが、年齢に見合った美しさにつながるような気がしている。

ファンデーションにかぎらず、なんとなく「やるべき」と思い込んだまま、自分のなかで常識化してしまっていることは多い。

たとえば、3食欠かさず食べること。
たとえば、一度読み始めた本は最後まで読み切ること。
たとえば、連休はどこかに出かけること。

ふと立ち止まって考えてみると、それらは自分で決めたルールではないと気づく。やらなければならないことでも、誰にとがめられることでもない。当たり前すぎて「やめてもいいよ」と言う人がいなかっただけのこと。

だったら、自分で言っていい。
自分の心と身体に聞いて、ケアしていい。

ファンデーションを塗るか塗らないかは、とても小さなことだ。
でも私にとっては、当たり前のルールを見直す、大きな一歩だった。


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