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「いたいのいたいの」が飛んでいかなくなって

いつからか「痛いの痛いの」が飛んでいかなくなった。

少し前まで、子どもが転んだり体をぶつけたりしても、それをやれば飛んでいったのに。
一回では大抵、飛んでいかない。火がついたように泣く子どもの体にふれ、傷ついたところをさすったり、痛みを吸い出すようにぐうっと力を込めてから思い切り空に放り投げる仕草を何度かくり返すと、少しずつ涙は引っ込んでいく。

飛んでった? まだ。
飛んでった? こくん。

私には確かに、「痛いの」を飛ばす力があった。
すりキズたんこぶ以外にも、熱がある時、おなかが痛い時、言葉にできない心のチクチクをやっつけたい時、いたみを感じる場所に手を当ててえいやっと飛ばすと、ちょっとだけ楽になったものだ。
けれど、小3になる息子にはもう、それは魔法ではなく子ども騙しになってしまった。

ある朝、息子とささいなケンカをした。
息子がしてもらえると思っていたことを、私はしなくて良いと思っていたのが原因だった。よくある小さな行き違いだ。登校の時間が迫っていて、私は、納得いかない顔の息子を半分強引に送り出した。息子が学校に行ったらすぐに取りかからねばならない仕事があった。
けれど、手を振って玄関を閉めた30秒後、息子は引き返してきて乱暴にドアを開けた。
動物のようにグルルル…とうめきながら、目にはうっすら涙が滲んでいる。
傷ついている、と無言で訴えている。自分の傷を、学校に行けば忘れる程度に軽く見られたことが、くやしいのだろう。

保育園の時なら、ごめんねの後で「ここ(心)が痛いの?」と胸に手を当てて、「痛いの痛いの、飛んでけー!」と呪文を唱えたかもしれない。
急ぎの仕事がなかったら、「少し遅れて行く?」と提案しただろう。
だけど、母にだって事情がある。
行きたくない理由が学校にあるのではないなら、いつまでも不機嫌を言い訳にはできないのだ。

もう一度、認識違いがあったことを謝り、帰宅後の楽しみを一つ約束する。息子は少しふてくされた様子で、うなずく。重い足取りで再び通学路に戻る。一年生の時は、それでもまた戻ってきて結局登校できなかったこともあったが、さて。

2階の窓から一部始終を見守っていた夫が、切なそうに言った。
「ちゃんと学校行ったよ。そこの角で立ち止まって、メガネを外して涙をふいて」

家から数メートルほどの十字路の角は地域のゴミ置き場で、その日はたくさんの燃えるゴミが出されていた。そこで少し立ち止まって、息子は何を考えていたんだろう。戻ろうか、進もうか。自分でも、こんな小さなことで心をかきむしって、幼稚だって思っているのだ。お母さんには仕事があると、知っているのだ。だから、飛んでいかないとわかっているけど、小さな痛みをぽいっと捨てた。メガネを外して、自分の手で。

映画やドラマの中で、主人公が人知れず流した涙は、視聴者がちゃんと観ている。けれど、現実の世界で、一人きりでこぼす涙は正真正銘のひとりぼっちだ。息子が涙をぬぐって歩き出す瞬間を目撃したのはたまたまのことで、本人は私たちが見ていたことも知らないし、クラスメイトは彼がさっきまで泣いていたことなんて気づかない。気づかれたくもないだろう。

魔法を失くすのと引き換えに、子どもは「いたいの」をぎゅうっと抱えて歩き出す。平気な顔をして日常に戻ることで、いたみが和らぐことを覚える。立ち止まるのではなく、進むことでしか癒えないと知る。

がんばれ。
もうがんばっている子にがんばれと言うなと言われても、そう思わずにいられない。
いたいのいたいの、飛んでけ!
その言葉の代わりにエールを送るよ。

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