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気忙しい日に鍋を磨いたら

「言いにくいけれど言わなくちゃ」と、返信を保留にしている案件があった。

それに加えて、なかなか着地点が見つからない昨日の打ち合わせの要点整理、今日入稿予定の原稿、その他諸々の雑務がごちゃまぜになって、朝から気ばかり忙しい。息子の登校を見送り、最低限の家事を済ませたら、だらだらとスマホなど見ず、シャキッと取りかからなければと思っていた。

さて何から片付けようか_____。


頭の中でタスクリストを並べながら食器を洗っていると、ふと、あるものが目に留まった。
朝食のスープが入っていた、鍋だ。

洗い忘れていたそれをシンクに転がし、こびりついたスープをぐるぐると洗う。
けれど、なぜだろう。
洗剤では落ちない鍋の側面のステンレス焼けが、今、すごく気になる。
昨日まで気にもとめなかったのに、今。

「いやいや鍋を磨く前に、やることはいくらでもあるだろう」

鍋の泡を水ですすぎながら、タスクリストをもう一度思い出す。
鍋の文字はどこにもない。
でも、もう遅い。
気がつくと手には激落ちくんが握られていた。

ごしごしごしごしごしごしごしごし…

スープや味噌汁を作ることが多いこの鍋を、毎日使っている。大体6分目くらいまでしか水を入れないから、ちょうどその水位から上がステンレス焼けしてしまうのだ。家族3人分の汁物の水位をメラミンスポンジで擦りながら、やはりそれだけでは落ちきらず、研磨剤も出動させることにした。

こうなったらサイズ違いの鍋も磨かずにいられない。

結局、私は2つの鍋を一心不乱に磨き続けたのである。

働きものをねぎらうのは

自分でも呆れてしまうのだけれど、私ときたら鍋のあと、掃除機のヘッドブラシの掃除までしはじめた。
これが息子の行動だったら「そんなことより宿題は?」と小言を言ってしまいそうだ。
めったに取り外さないヘッドパーツを動画を見ながら分解し、ホコリや髪の毛のからまったブラシを洗いながら思い出したのは、この掃除機の前に使っていた、ルンバのことだ。

当時は猫と暮らしていたし、子どもも居なかったので、留守中に掃除をしてくれるルンバをとても重宝していた。子どもが生まれてからは、床に何もない状態を維持するのが難しくダイソンに乗り換えたけれど、人間がぐうたらしている間も健気に働くルンバくんを愛おしいとさえ思っていたし、今でも、愛用者が口をそろえてそう語る気持ちがよくわかる。

ある時、ルンバのブラシやフィルターの掃除をしながら、こう愚痴た。
「どんなに便利な道具でも、道具そのものの掃除やメンテナンスは人の手でやるしかないんだねぇ」と。

「ルンバにこれだけ掃除をしてもらっておきながら、ルンバ自体の掃除も面倒くさいなんて、怠け者が過ぎる」
「それさえもやりたくないなんて、あまりにもルンバが不憫だ」
という会話で夫と笑った。

でもきっと、お掃除ロボットに限ったことではない。
洗濯機も、エアコンも、きっと鍋や包丁だって、働きものをねぎらうのはいつだってアナログな人の手だ。

洗うことは感謝すること

鍋と掃除機がすっかりきれいになったとき、時計は10時半を過ぎていた。
タスクリストは一つも進んでいないし、手を動かしている間、仕事のことを考えていたわけでもない。

でも、私の心は霧が晴れたみたいにすっきりとしていた。

少し前、文筆家の松浦弥太郎さんのVoisyを聴いていたら、こんな問いかけがあった。
「洗うという行為の意味を考えているんです」
手を洗う、食器を洗う、衣服を洗う、体を洗う…。
意味かあ。なんだろう。「素の状態に戻す」かなぁ。なんてぼんやり考えていたら、次の弥太郎さんの言葉に、私は驚いた。

「僕は、洗うって『感謝する』ってことだと思うんです」

うわーっと胸の奥から熱いものが込み上げてきて、機械の掃除は機械ではだめだと感じた理由にカチリとあてはまった気がした。

もしも、便利な道具の掃除やメンテナンスに人の手が必要なくなったとしたら、私たちはいつ彼らに感謝するんだろう。

人間だって、自分で自分をねぎらうんじゃなく、誰かに「お疲れさま」って言われたいはずだ。
できれば、血の通った言葉と手で。

やるべきことに心を占拠された朝、私が鍋と目があったのはきっと、偶然ではない。
毎日忙しく働く鍋が『感謝されていない』ように見えたのだろう。
そしてそれはそのまま、私は私の頭を働かせっぱなしにしていることを、象徴していたんじゃないかと思う。

ピカピカになった鍋と掃除機を片付け、ようやくPCに向かうと、今まで迷っていたことがうそのようにするすると言葉が出てきた。
「言いにくいこと」を伝えた相手からはすぐに「率直に言ってくださりありがとうございます」と返事が来た。

絡まった思考をクリアにし、ねぎらうのは、頭ではなく無心に動かす、この手だった。

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