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【臨床と宗教】 第14回 苦しみによる連帯

前回まで
キリスト教では,人間は黒いものを抱え神から断絶された存在とされますが,そこに橋を架けて繋げたイエスを信仰する宗教です.教会に立つ十字架は神からの無限の愛(アガペー)とその広がり(隣人愛)を示しています.カトリック系の場合,神父やシスターのなり手不足でチャプレンの数は減少しつつあるということでした.

自分の中の悪


 先生のお話で,人間はどうにもならない黒いものを抱えているという話がありました.どうにもならない黒いものというのは,自分の中で感じてしまう,どうしようもない苦しみ,苦悩みたいなものなのか.あるいはキリスト教には原罪という考え方がありますが,その辺とつながっているものなのか,お聞きしたいと思ったのですが.

深谷
 たとえば昔,ゼミにのび太君というあだ名の学生さんがいました.のび太君は中学生の頃,いじめられっ子でした.めちゃくちゃいじめられていて,かつあげされて,いろいろ取られてしまった.ところが,あるときにかつあげしてくるいじめっ子のジャイアンが弱ってきて,のび太君のほうに寄ってきたのだそうです.彼は反撃だといってジャイアンをボコボコにしてやった.そうしたらジャイアンはある時から学校に来られなくなって転校してしまったのだと告白しました.

 のび太君はそれで本当によかったのだろうかと言うのですね.ボコボコにされたからボコボコにしてしまった自分というのがいて,今はもう取り返しがつかないわけです.それで自分は本当によかったのだろうか.自分の中にどうにもならない,暴力性というものを感じるという話をしていたことがあります.

 それを原因論として見てみれば,神との断絶の中で生まれた原罪と呼ぶこともできるだろうし,仏教的にいったら罪業というか業ですね.そういうものとして感じるわけです.宗教の教義のなかでそういうものを何と名付けているのかはそれぞれあって,その起源論もあるわけです.でも自分の中,人間性の中に悪に傾斜する何かを感じる.だからこそ救われがたい人間だと感じる.それだからこそ救いを求めるというふうにステップになっていきます.仏教だったら,それは阿弥陀さんとつながることだったりするかもしれないし,キリスト教だったらキリストにつながることだったりする.それが宗教のアンサーということなのでしょうね.

キリスト教の霊魂観


 対談のはじめに先生のご経歴の話で(第11回:2022年1月号),先生の個人的な体験について聞かせていただきましたが,解剖の話が印象深かったですね.医学生も1年生か2年生のときに解剖実習をやります.そこで通過儀礼のように「人間の死」というもの全員が自覚します.ただ,医者になってくると死というものに慣れてしまったり,人間を精巧な部品でできた機械と捉える生物医学モデルに慣れてしまったり,人間が実存みたいなものをもった存在であることが何となく忘れられてしまうところがあるのではないかと思っています.先生が,これが腎臓だよ,肺だよと言われた時,人間の死とは何だろうと思われたという話がありましたが,現代の医学はキリスト教の方からはどういうふうに見えているのでしょうか.

深谷
 ホリスティックに見られないという感覚はあります.その解剖のとき,おそらく60歳ぐらい,今の私と同じぐらいの年のおやじさんで,白髪がチョボチョボ出ていました.腕に相合い傘の入れ墨があって,ハートが描いてあって,何とか命と描いてあります.彼女か奥さんの名前なんだろうなと思いながら見ていました.そういうのが見えても死体を解剖しているドクターが,これは胃だよ,これは何とかだよと取り出していくわけです.何だろうなと思いました.解剖の最後のほうで内科の先生がやって来て,「こいつはいい男だったな」と一言おっしゃった.内科の先生はその方のことをすごくよくわかっていて,「いい男だったな.本当にいいやつだったよ」とご遺体を目の前に声をかけていたんです.でも外科の先生は「これが心臓だよ」,「これは何だよ」と続けていて,ドクターでも認識の違いというか,全人性の捉え方の違いがあるのかなとちょっと思って見ていました.

 私はどうなったかというと,ソーシャルワーカーの部屋に戻ったら,面白い話で,おやつが桃色の大福餅でした.今やってきたばかりの解剖を思い出すものだから,嫌々食べました.それでもそのときはこんなの見てしまって,こんな体験をしてしまったけれども自分は大丈夫な人間なんだと思ってちょっと誇らしく思ったところもあったんです.ただ家に帰ったらめったに熱なんて出さないのですが,38℃を超えた熱を出しました.やっぱり社会福祉をやっている一般の女子学生から見るとショックなのですね.医師の方々がそれに慣れていくというのはすごいことです.ある意味,物としての死に慣れてしまっていると思います.


 先生の著書では,死が終わりではないと書かれておられました.宗教的な仕事に携わっている方は死が終わりではないとわかっておられると思いますが,医療従事者の場合は,死は一つの終わりという感じに見えてしまっているところがあると思います.「魂の存在」はなかなか口にできず,非科学的と捉えているところがあります.とくに日本では死後の世界とか魂の存在について,医療従事者,とくに医師は科学的な理論の下に実践している医師がそういうものについて言うことはタブーみたいな感じがあります.ご著書を読ませていただく中で僕が「あっ」と思ったのは,死後の世界や魂を前提としているから死が終わりと考えるわけではないという記述です.関係性の中で残っていくような存在とか,そういうところも踏まえられているのかなと思ったのですが,その辺りはいかがでしょうか.

深谷
 復活があるからとか,死後の世界があるから死は終わりではないとチャプレンの人は言います.たとえば「死んだらどうなりますか」と言ったら,チャプレンによっては「復活がありますよ」と言う人もいれば,「死んでも永遠の命がありますよ」と言う人もいます.


 キリスト教においては魂というか霊魂はあって,それは基本的に不滅というか,永遠のものであるということですね.

深谷
 神から出てきて,神の下に戻っていく.それは輪廻転生したりはしないのですね.だから亡くなっても葉っぱのフレディのように,また生まれ変わってくるというか,何か違う元素になって出てくるというようなこともないです.私のお墓の前で泣かないでくださいみたいな,私は千の風になってしまうこともないのですね.神の下で神につながれて永遠に自分はある.どういう存在になるかよくわからないのですが,自分が失われてしまうことはない.これがキリスト教の霊魂観ですね.


 僕が「なるほど」と思ったのは,たぶんその違いですね.仏教でも輪廻転生的な考え方とか,大いなる生命のエネルギーみたいなものへと帰ってゆくみたいなイメージがあったので,それとはまたちょっと違うという.

深谷
 違うのだと思います.


 そうですね.

深谷
 カトリックの二十歳ぐらいで若くして死んでしまった小さき花のテレジアという聖人がいます.その人は肺病で亡くなるのですが,私が滅びるのではない,命に入るのですといった言葉を残しています.だから神と共なる,とくにカトリックの神秘主義の人たちに言わせると花婿になるキリストとの合一のときなのです.大いなる合一のとき,光の中で一緒になっていく.そういう感じの霊魂観ですね.

 今のクリスチャンが光の中で花婿キリストと合一していくと思っているかどうかわかりませんが,ともかく神様にお会いして,永遠の休息に入っていくわけですね.

苦しみによる連帯


 あと個人的にすごく感動した部分があります.苦しみが自分のためだけでなくて,自分が苦しむことで,他者が慰めを受ける源とされるというスピリチュアリティが書かれた『コリントの信徒への手紙』です.

わたしたちが悩み苦しむとき,それはあなたがたの慰めと救いになります.また,わたしたちが慰められるとき,それはあなたがたの慰めになり,あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです.(コリントの信徒への手紙二一章六節)

 たとえば,ある人が病気になったとして,その苦しみは単なるその人一人のための苦しみではなく,その病気の苦悩を通して神は他者に何かを教えてくれる,あるいは他者が人生の意味づけを得られるという視点です.苦しみの癒しを私は結構エゴイスティックに捉えていたというか,自分が苦しむことで他者が癒されると考えていなかったので,これを読んでいて,なるほどとすごく思いました.医療も苦しみの緩和が根っこにあるので,ここは宗教とも結構近いところかなと思いました.

 あと本当に浅い勉強ですけれど,仏教を勉強していると,苦しみをどうするかというところをとくにブッダは説いています.ブッダの教えでは愛という概念はほとんど出てきませんが,苦しみの緩和のところは結構近いのかなと思いました.

深谷
 孫先生の挙げた『コリントの信徒への手紙』の冒頭に,自分が苦しんでいることはあなた方の慰めになっていくし,あなた方が慰めればほかの人たちも慰められていくということを言っています.神からいただく慰めによってあなた方は慰められている.自分が苦しむとき,後になってこの苦しみを用いて苦しむ人を理解してあげることができ,慰めることができるようになる,そして人類の連帯が生まれるわけです.苦しみによる連帯,慰めの連帯を作っていく.そのあたりを『コリントの信徒への手紙』の冒頭のところは感じ取らないといけないですね.

 キリスト教は上と下とのマンツーマンではなくて,横が広いのですね.仏教もそうではないとはいえないのですけれど,ただ自分だけが上昇するとか,自分だけが聖なる人間になる,超越することはないです.横が出てきます.


 横のつながりということで言うと,キリスト教ではチャーチというものがありますね.

深谷
 そうですね,チャーチという共同体でもって,キリスト教の慈善事業につながって,社会福祉につながってきた歴史があるわけです.


 仏教でも小乗仏教のほうでサンガという,仏教を信じる人同士の集まりとか連帯が大事だと言われていて,そこはチャーチの本来の意味と近いなと感じていました.

次回に続く)

※本内容は「治療」2022年4月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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