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【臨床と宗教】 最終回 神はどこにいるのか

前回まで
キリスト教では魂は不滅のものであって,死後でも生まれ変わりなどするとは考えません.神より出てきて神の下へと戻っていくという霊魂観があることがわかりました.苦しみについての考え方では周囲との連帯が重要な点となっていることがあげられ仏教との共通点も浮かび上がってきました.

瞑想から得られるもの


 これまで私のほうからいろいろと質問させていただきましたが,先生から私に聞いてみたいことはありますか.

深谷
 そうですね.先生はマインドフルネス,瞑想に関心があるということでしたが,瞑想を通じてどういう体験をしていくのか.感じたこと,気がついたことはどんなことなのかをうかがってみたかったのですが.


 本当に限られた時間でしかやっていないのですが,僕の場合は主にティク・ナット・ハンというベトナム出身の仏教僧の本を参考にしています.1960年代のベトナム戦争への反対運動においてキング牧師とも連携して,世界的に仏教を広めた方です.最近,ティク・ナット・ハンのマインドフルネスのワークショップなどの機会が日本でもありまして,それに参加する形での体験です.実践(プラクティス)を重視するので,瞑想でも座禅のように座って行うものもありますが,歩く瞑想とか食べる瞑想というのもあって,ご飯を食べるとき,しっかり味わって食べるという,非常に単純なことなのですが,そういう中から気づきを得るというものです.ティク・ナット・ハンの本に仏教的な教えが書いてあって,実践とともに仏教哲学も学べます.

 たとえば朝,瞑想していると,普段いろいろ悩んでいること,今こういう仕事がうまくいかないとか,家族と友人関係のこと,自分もだんだん年をとってきたな,いつ頃死ぬのだろうか,そういういろいろな不安とか恐れみたいなものが瞑想をしていると,今現在しかないのだなということに気づくことがあります.そうすると悩みみたいなものがなくなるような感じがします.自分の存在に対しての気づきみたいなものがあります.自分の将来とか過去のことを恐れる1つの原因が,思考のとらわれみたいなところから出てくるので,そこをいったん解いて,上から俯瞰して見るような感覚が瞑想で得られたりします.

深谷
 俯瞰する感覚ですか.


 そうですね.あと今回の対談の関連ではティク・ナット・ハンの『イエスとブッダ:いのちに帰る』(春秋社)という本があります.それも非常に面白くてキリスト教と仏教の教義を俯瞰して共通する基盤のところをわかりやすく語ってくれています.仏教では愛,アガペーみたいな直接的なことはいわないのですが,相互存在,Inter-beingという,あなたは私であるみたいなことがいわれています.ティク・ナット・ハンはどちらかというと小乗仏教というか,上座部仏教に近くて日本の仏教とは違うなと感じることもありますが,仏教とキリスト教が実は近いことを教えているのだと書かれています.

深谷
 私は大学院の頃,カトリックの神秘主義の本をいっぱい読んでいました.1時間とか2時間とか,時間があれば毎日座っていた時期があります.瞑想というか,カトリックの場合は念祷というのでしょうか.念祷の体験が結構あって,念祷の深まりという体験もいっぱいあって,気づきをたくさんもらったりしたこともあります.いまだにその気づきが指針になっていたりすることもあります.だから瞑想というものから人間が得られるものは結構いろいろあるのだろうと思って,聞いてみました.

介護の苦しさ

深谷
 もう1つお聞きしたいことがあって,在宅で患者さんを診療して支えるとき,家族との関係で難しいことがいっぱいありますよね.家族だから,在宅だからこそ難しいこと.在宅で看取りをし亡くなっていくことの難しさを経験したことはおありですか.


 病院での看取りと在宅での看取りの両方を経験しますが,総じていうと在宅での看取りのほうがハッピーだなと感じています.家族の方も満足度が高いような感じがあります.病院に比べると家族が付きっきりになりますし,介護は大変です.しかし本人も家族もできれば家で最期を迎えたいと思っているとき,短期間でも最期に家で過ごせると,とくに家族からの感謝度が高いと感じています.

 最近はコロナ禍で病院での面会はほとんどできないです.入院している患者さんのことを家族はものすごく心配しているけれども会えないという状態で実はものすごくストレスが高いだろうと想像します.われわれとしてはそれでもしょうがないので,すみませんという感じで今は進んでいますが,死ぬ瞬間までほとんど家族に会えないというのは,本当はものすごくつらいことだと思います.人生最期の日々においては,数日間でも1週間でも望んでいる場合は家に迎えてあげたほうが満足度,幸福度が高いのではないかと感じています.

深谷
 私ではなくて,ほかのチャプレンから聞いた話にはなるのですが,在宅医療の場合,患者さんも家族もたしかにある意味ハッピーだけれども,家族は病人を一人抱えているということで行動の制限ができてものすごくストレスがたまっていくということを聞きました.関係性がある程度よければいいけれども,関係性が悪いと生涯続いてきた家族の悪い関係性の中に置かれていくわけでめちゃくちゃなことになっていきます.患者さんも家族も安らがないまま亡くなっていくという事例の話をしていた記憶があって聞いてみました.


 やはりいろいろな形があると思います.険悪な家族関係というのもたくさんあるのでしょう.在宅看取りに移行できたケースはいろいろな条件がよかったからというのはあると思います.ただ,本当に苦しみながら自分の親を介護していた息子さんが,最後つきものが取れたように,「本当にありがとうございました」という形で感謝されたりというのを見ると,この方にとっては家での自分の父親の看取りはすごくよかったのだろうなと感じます.

 介護してハッピーな,何も問題ない看取りもありますが,トラブルがいっぱいあったり,介護者が私たちにこれが困った,あれが困ったといってくる形で,なかなか厳しいなと思うこともあります.そのなかでなんとか看取り
ができたというときは,ほとんどの方は家で看取れてよかったですという感想をおっしゃることが多いので,単純な苦しさだけでは測れないものがあるのかなと思います.

20世紀神学の到達点


 深谷先生にはいろいろとおうかがいして,本当に興味深いことばかりです.個人的に私は映画がすごく好きなのですが,遠藤周作の『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督,2016年)は原作も読みましたが,映画にもすごく感動しました.貧しく虐げられている人たちが非常に苦しんでいるのに神はなぜ沈黙しているのか.何も答えてくれないのだという問いですね.あれもすごく心に響きました.

 先生の著書でもそういう質問にどう答えているかというのがあって,すごく興味深かったです.実際,キリスト教の信者からどうして神は沈黙しているんですかという問いを受けることはあるのでしょうか.

深谷
 あります.2年ぐらい前になりますが自己免疫疾患に加えて統合失調症を抱えている方で,私はどうして癒されないのだろうと切迫したかたちで電話をかけられました.電話をかけるのも1週間に1回,1時間だけというようにちゃんと距離をとって支援していきますが,なぜ私は苦しいのか,苦しい,苦しいというだけの電話を1時間聞き続ける経験がありました.なぜ神様は助けてくれないのかといわれることはすごくあります.神義論というので
すが,ひもとけば不正なことをする神はいかにして正しいものとされるのかということです.

 答えはあってないようなものです.余談ですがギリシア神話の神様は人間くさくて,人間に対してとても無関心です.“暇な神”と言ったりします.キリスト教の神も苦しまない,痛まない,悲しまない.感情的にはギリシア
語でアパテイアといわれていました.

 ところが20世紀神学のところで人類はアウシュヴィッツを経験します.そうするとユダヤ民族がホロコーストに遭っていき,また周辺にいたヨーロッパの人でもいっぱい苦しんで死んでいくなかで神はどこにいるのだという問いは生まれてきます.

 エリ・ヴィーゼルの『夜』という作品があります.アウシュヴィッツ強制収容所の中で何人かの脱走を試みた囚人が処刑されています.それをユダヤ人たちが見ているわけです.1人年端のいかない少年がいます.その少年も吊るされているわけです.群衆がいいました「神はどこにいるのか,神は死んだのか,神はどこにいるんだ,神はいないのか,どこにいるんだ」と言うとどこかから声が聞こえる.それはその人の心の中で聞こえたのか,誰かがいったのかわからないけれども,「神はそこにいる.そこで吊るされて,彼らと一緒に死んでいる」.だからアウシュヴィッツの惨禍の中で20世紀神学が出した答えは,神はどこにいるのかといったとき,吊るされて死んでいる,苦しんでいる人間たちとともに苦しんで最後まで一緒にいるのが神だ.神はどこにも行かないということです.

 キリスト教の神様は居場所のない神です.日本だったら山があったり,神社があったり,どこかに祀られています.土地を持っている神です.ところがキリスト教の神は土地を持たない神です.土地を所有しない.だから祠
とかはない.ユダヤ教の神殿だって,エルサレム神殿は跡だけ残っていますが,旧約聖書では要らない建てるなと神様はいっています.ともかく人間と居たがる.どこまでも人間と居たがる.苦しみを共にしたがるというのが
キリスト教の神の性格です.どこまでも人間を追い求めて,追いかけてつきまとうのです.その神は人間の苦しみの時,どこにいたかといえば人間の中で苦しんでいた.共に苦しんでいたというのが20世紀神学の到達点です.遠藤周作もそれに乗っかっていると思います.

 北森嘉蔵という『神の痛みの神学』を書いた東京神学大学の牧師さんがいます.彼の『神の痛みの神学』とかユルゲン・モルトマンという神学者の『十字架につけられた神』とか,その辺をたぶん遠藤も読んでいて,『イエスの生涯』,『沈黙』を書いていると思います.これは神学校に行って初めてわかったことですが.


 すごく興味深いです.啓蒙主義とか,人間の理性を高らかにうたっていた哲学もアウシュヴィッツのユダヤ人虐殺,ホロコーストで人間の理性が行き着いたところがこういう凄惨な虐殺とか戦争だったではないかというところ
で大きな挫折点になっています.最近,エマニュエル・レヴィナスという哲学者の本『全体性と無限』を精読しています.彼もユダヤ人で,ハイデガーの存在論を批判的に継承して倫理的な哲学「他者の哲学」を打ち出しています.読んでいると,彼の場合は哲学ですが,無限という言葉で神に近いような存在が自分の個別性とか存在の基盤を作るみたいなところをいっていて,この話と近いなと感じています.

 私がキリスト教に対してものすごく興味が尽きないのは,仏教もそうですが,2000年たっても人々の心を魅了してやまないところです.聖書というのは人類史上最大のベストセラーブックだと思います.私もときどき拾い読みぐらいはしますが,熟読できていないので,いつかしっかり読みたいと思っています.

深谷
 拾い読みでもつまみ食いでもしてくださったらいいかなと思います.酒のつまみでもいいかもしれません(笑)どうもありがとうございました.


 長い間,ありがとうございました.


※本内容は「治療」2022年5月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

連載は今回で最終回となります.
これまでご愛読いただきまして誠にありがとうございました.

バックナンバーは引き続き治療編集部noteにて閲覧可能です。


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